文/後藤雅洋

大多数のジャズ・ファンのみなさんは、ホレス・シルヴァーといえ ば「ああ、あのファンキー・ピアニストね」とお答えになることと思います。

1961年の正月早々、まだ松飾りも取れないうちのアート・ブレイキー・アンド・ザ・ジャズ・メッセンジャーズの来日公演は、日本に一大ジャズ・ブームをもたらしました。そしてその動きを決定的にしたのが、翌62年正月のシルヴァー来日公演だったのです。ちなみに、ザ ・ジャズ・メッセンジャーズとシルヴァーは深い関わりがあり、ともに“ファンキー・ジャズ”という文脈で当時の日本のファンに受け入れられたのでした。

それでは“ファンキー・ジャズ”とはいったいどんなジャズ・スタイルを指すのでしょう。なんと、今回の主人公であるホレス・シルヴァーの演奏に対する評言が発端だったのです。

シルヴァーが56年にブルーノートに録音した、ラテン・フレイヴァーが込められた曲「セニョール・ブルース」に対して、ジャズ評論家のレナード・フェザーが「ファイン・アンド・ファンキー」と評したことが、どうやら“ファンキー・ジャズ”という言い回しの発端のようなのです。ちなみにこのシングル盤は大ヒットし、LPアルバム『シックス・ピーシズ・オブ・シルヴァー』(ブルーノート)にも収録されました。

「ファンキー(Funky)」とは俗語で、黒人の生活文化に根ざす「アーシー(Earthy/土臭い)」な感覚や、汗の飛び散るような感覚を指し、日本ではさしずめいい意味での「庶民的大衆性」に近いニュアンスかもしれません。

ジャズはもともと黒人音楽として誕生したのですが、アメリカの白人社会の中で発展するうちに、しだいに洗練の度を強めていきました。50年代半ばに、ジャズは“ハード・バップ”という、ジャズ・スタイルとしてほぼ完成された様式を備えるようになります。しかし完成形はいずれマンネリズムへと堕ち込む危うさを秘めていました。

そうした危機感に対して、先進的トランペッター、マイルス・デイヴィスやそのバンドのサイドマンだったテナー・サックス奏者ジョン・コルトレーンなどは“モード”という音楽理論を利用して新しいジャズ・スタイルを模索しました。また、アルト・サックス奏者オーネット・コールマンは従来のジャズ理論に捉われない新しいジャズとして、“フリー・ジャズ”という考え方を打ち出しました。

他方、音楽理論というよりフィーリングを重視したジャズマンたちは、相対的に薄れてきた黒人カラーをより強く演奏に持ち込むことでジャズを再び活性化しようとしたのです。それが、先ほどのブレイキーやシルヴァー、そしてアルト・サックス奏者キャノンボール・アダレイといったジャズマンたちだったのです。

彼らの50年代後半から60年代にかけての黒人性を強調したジャズ・スタイルに対して、“ファンキー・ジャズ”という命名がなされたのです。なかでもシルヴァーは作曲家としても、自らのピアノ演奏においても、そしてバンド・リーダーとしてもいちばんファンキー指数が高いジャズマンといえるでしょう。多くのファンの印象はまさに正解だったのですね。

ですから、シルヴァーの魅力を探るには「ファンキー・ピアニスト」という視点は欠かせません。しかし、同じファンキー仲間、ブレイキーにしろキャノンボールにしろ、ずーっとファンキー・スタイル一辺倒だったわけではありません。同じように、シルヴァーのジャズ歴も思いのほか多彩です。

彼の音楽は大きく3つの側面から捉えることができるでしょう。その3つとは、まず彼の生まれです。

■シルヴァーのラテン感覚

ホレス・シルヴァーは1928年(昭和3年)にアメリカ北東部コネチカット州ノーフォークに生まれました。世代的には同じピアニストであるバド・パウエルの4歳年下。シルヴァーの経歴で注目したいのは、父親の出身地。彼はアフリカの西側に突き出た国セネガルのはるか沖合いにある大西洋の島国、カーボベルデ出身なのです。

カーボベルデはつい最近までポルトガルの植民地で、人種的にはポルトガル人とアフリカ人の混血です。ちなみにこうした人種構成はポルトガルが旧宗主国だったブラジルと似ていますね(ブラジルはこれに先住民族の血が加わる)。ということはシルヴァーには「ラテンの血」が流れているということなのです。

カーボベルデの音楽はその地理的、歴史的条件から、ポルトガル、カリブ海諸国、アフリカ、そしてブラジルの音楽から影響を受け混合したものです。そして興味深いことに、自身が音楽家でもあったシルヴァーの父親は折に触れ、「もっとサンバ(ブラジル音楽)のフィーリングを入れたらどうか」と進言していたというのですね。

こうした事実にはシルヴァーの音楽の魅力を探る上で重要なヒントが潜んでいると同時に、「ジャズ」という音楽の由来を考える上でもたいへん興味深いポイントなのです。というのも、ジャズ発祥の地といわれているカリブ海に面した港湾都市ニューオルリンズは、その昔フランス、スペインの植民地で、ラテン文化の影響がたいへん強かったからです。

ジャズはアフリカン・アメリカンの音楽的感受性と西欧音楽との融合でできあがった混交音楽ですが、その発端にはラテン・ミュージックからの影響が少なからずあったようなのですね。そしてラテン・フレイヴァーが加わったシルヴァー作曲「セニョール・ブルース」を、アメリカの白人評論家が「ファンキー」と感じたことも、じつに興味深い現象だと思います。

ちなみに、「セニョール・ブルース」は現在の日本人の感覚からするとさほど「黒っぽく」は聴こえず、同時代の平均的“ハード・バップ”演奏の枠内にあるように思えます。しかしシルヴァーの音楽が年を経るごとに「黒さ」を増し、「ファンキー」になっていったことは事実です。

そしてこの変容はシルヴァーだけのことではなく、ブレイキーにしてもキャノンボールにしても、大なり小なり同様のことがいえるのです。「ファンキー度数」は時代を追うごとに「進化」するのです。

■“ファンキー”は先祖帰り

シルヴァーの音楽を探る上でもうひとつ重要なポイントはピアニストとしての出自です。

ジャズという音楽は自然発生してできたものなので、先人たちの影響力がとても重要な要素となります。誰しもが「コピー」からジャズマンへの道を歩み始めるのです。ではシルヴァーのアイドルは誰だったのでしょう。ちょっと意外ですが、やはりあのバド・パウエルだったのですね。

「意外」というのは、パウエルは特に「ファンキーな」ピアニストというわけではなく、またシルヴァーのよく知られた演奏にしても、ケニー・ドリューやソニー・クラークといった、いわゆる「パウエル派」と呼ばれたピアニストたちのように、とりわけパウエルに似ているというわけでもないからです。

また「やはり」というのは、パウエルはアルト奏者チャーリー・パーカーが始めた“ビ・バップ”という新しいジャズ・スタイルをピアノで実践した「モダン・ジャズ・ピアノの開祖」なので、50年代以降デビューした大多数のピアニストは、大なり小なりパウエルの影響圏下にあるからです。

「生まれ・育ち」そして「ピアニストとしての出自」に加えて3つめのポイントは、言うまでもなくこうしたものが融合した結果として誕生した、ユニークなシルヴァーのピアノ奏法と音楽性です。

まずシルヴァーの「ピアノ奏法」の特徴として有名なのが「子猫がじゃれているような」というじつに秀逸な形容によって言い表された独特のフレージングですね。この特徴的なフレージングが「ファンキー節」の重要なファクターとなっていると同時に、シルヴァーのトレード・マークでもあるのです。

そして「音楽性」です。この言葉、なんとなくニュアンスは伝わるものの、それこそ「子猫がじゃれている」ような具体性がないので、ちょっと雲を摑むようなところがあります。とっかかりとしては同じピアニストで、私が「優れたピアニストであると同時に、有能な音楽家でもある」と評したハービー・ハンコックを例として考えてみましょう。

彼もまた自作曲「ウォーターメロン・マン」でファンキーなピアニストとして注目されましたが、彼のピアニストとしての出自はクラシック音楽で、モーツァルトのピアノ協奏曲で賞を貰ったほどなのです。彼のピアノ・スタイルはファンキーとは直接関係ないのですね。要するにハンコックの場合、ファンキー・テイストは「考えて」作られたものともいえるでしょう。

他方、シルヴァーのパウエルから影響を受けたピアノ奏法は、当初こそさほどファンキーではないとはいえ、そのリズミカルで明確なタッチ、特徴的なニュアンスには、本質的ブラックネスが備わっているのです。

そして「シルヴァー流ファンキー」の中身です。ひとくくりにファンキー・ジャズといっても、細かく見ていくと「蕎麦屋の出前持ちが口笛で吹いた」という都市伝説で有名な「モーニン」に代表されるブレイキーのファンキー・ナンバーと、キャノンボールのファンキー路線、そしてシルヴァー節は、全部「黒っぽい」という共通項はあっても、それぞれ微妙に異なる要素によって成立しているといえるでしょう。

シルヴァーの「黒さ」は彼の生まれ、育ち、そして父親からの影響もあって、ラテン風味がうまい塩梅に作用しています。そしてそれは「ジャズ」という音楽の由来・発端とも深く結びついていて、つまり、ブラックネスとひとことで括られるアメリカ黒人音楽のフィーリングには、最初からラテン・フレイヴァーが隠し味的に含まれているようなのですね。

ということは、相対的に西欧的洗練の度を強めた“ハード・バップ”を、シルヴァーはもっとも自然な形で「先祖帰り」させたといえるのかもしれません。

結論すれば、ブレイキー、キャノンボールにとっては「通過点」ともいえる「ファンキー・テイスト」も、シルヴァーにとっては彼の音楽性に深く根ざしているので、「その後」のシルヴァーの音楽的変化と「ファンキー・ジャズ」には、それなりの「連続性」が感じられるのですね。これが大きい。

そしてもっとも重要なポイントは、シルヴァーのピアノ演奏の特徴が、彼の作り上げる音楽世界とじつにしっくりとマッチしているところです。

■ブレイキーとの因縁

それではシルヴァーのジャズ歴を具体的に追ってみましょう。

多くのジャズ少年たちと同じように、シルヴァーもハイスクールでテナー・サックスを演奏するようになります。1942年のことでした。

そのころのアイドルはチャーリー・パーカーのアイドルでもあったテナー・サックス奏者レスター・ヤング。シルヴァーは“ビ・バップ”絶頂期の48年には、サックス奏者兼ピアニストとしてプロ・ミュージシャンとなりますが、すぐにピアノに専念。その才能を認められテナー奏者のスタン・ゲッツにスカウトされ、ジャズの中心地ニューヨークへと進出します。そして52年にはブルーノート・レーベルと契約を結び、一連の録音を行ないます。

彼の名前がジャズ史に大きく記録されたのは、54年にジャズ・クラブ『バードランド』で行なわれたブレイキーとのセッションです。それを録音したアルバム『バードランドの夜』(ブルーノート)は「“ハード・バップ”の夜明け」などと称された記念碑的作品です。

そして55年にはブレイキーらと「ザ・ジャズ・メッセンジャーズ」を結成しますが、さまざまなトラブルに見舞われ、結局このグループは空中分解してしまい、のちにブレイキーによって「アート・ブレイキー・アンド・ザ・ジャズ・メッセンジャーズ」として継承されることになったのです。

ブレイキーとシルヴァーの間には浅からぬ因縁があるのですね。それにしても、ふたりがともに“ファンキー・ジャズ”の第一人者として知られているのは興味深いことです。

とはいえ、シルヴァーは自身の演奏はもちろん自作曲からしてファンキーですが、ブレイキーの場合はピアノのボビー・ティモンズによる「モーニン」など、サイドマンたちの曲目を採用しており、いわゆるファンキー・テイストを出しているのも、どちらかというとトランペッターのリー・モーガンなどサイドマンたちであるという違いがあります。

ちなみに、もう一方のファンキーの雄キャノンボールの代表的ファンキー・ナンバー「マーシー・マーシー・マーシー」もまた、サイドマンのピアニスト、ジョー・ザヴィヌルの作曲だったのですね。

■曲もピアノもファンキー

シルヴァーはブルーノート・レーベルに『ブローイン・ザ・ブルース・アウェイ』や『ザ・ケープ・ヴァーディーン・ブルース』など次々と意欲的録音を行ない、しだいにファンキー・ジャズの代表的ミュージシャンのひとりに数えられるようになります。

そして62年には前述したように来日し、日本じゅうにファンキー・ブームを巻き起こしたのでした。その後もシルヴァー人気は続きましたが、なかでも64年に父の助言を入れて録音した傑作アルバム『ソング・フォー・マイ・ファーザー』では、印象的なサンバ風のアルバム・タイトル曲が日本のジャズ喫茶で大人気を博したものです。

このように1960年代に一世を風靡したシルヴァーは、エレクトリック・ジャズが盛んになり、ジャズの変わり目ともいわれた60年代後半からは少し話題の中心からは外れましたが70年代以降も活躍を続け、他のどんなジャズマンとも違うテイストの音楽をさまざまなグループで世に問い続けたのです。

最後にシルヴァーの聴きどころを要約すると、黒っぽくメリハリの明確なピアノが、独特のシンコペーションの効いたフレージングを重ねることによって生み出されるファンキー・テイスト、ラテン・フレイヴァーにあるといえるでしょう。

ジャズ・ピアニスト多しといえども、その演奏自体が“ファンキー・ジャズ”というひとつのジャズ・スタイルの根幹をなすようなジャズマンは、それほど多いとはいえません。そういう意味でもシルヴァーは稀有な存在なのです。

文/後藤雅洋
ごとう・まさひろ 1947年、東京生まれ。67年に東京・四谷にジャズ喫茶『いーぐる』を開店。店主として店に立ち続ける一方、ジャズ評論家として著作、講演など幅広く活動。

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