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リー・モーガン|やんちゃなストリート感覚で“ファンキー・ジャズ”を牽引したヒーロー【ジャズの巨人】第18巻より

文/後藤雅洋

今ではごくふつうに親しまれているジャズも、日本でジャズが少しずつ知られだした1960年代では、まだまだ敷居の高い音楽でした。

そうした最中の1961年、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ一行の来日は、一気に日本じゅうにジャズ・ブームを巻き起こしたのです。

もちろんそれは彼らの圧倒的な熱演が素晴らしかったからですが、それと同時に、ファンの関心を強く惹くスターたちの存在が大きかったのです。なかでもサイドマンのちょっと不良っぽい早熟トランペッター、リー・モーガンの人気は絶大で、日本じゅうのトランペッターが彼の演奏スタイルをコピーをしたそうです。

ファン、特に女性たちの人気はたいしたもので、聞くところによると公演がはねたあとのプライヴェート・タイムでモーガンは、つねに複数の女性たちをはべらせていたとか……。もっともこの「モテ加減」が彼の悲劇的な死に繫がるのですが、ともあれ、そのころ流行のアイヴィー・スタイルでピシッとキメたモーガンの演奏スタイルは、まさにスター性充分。

“ファンキー・ジャズ”というきわめて強力なキャッチ・フレーズが、ちょっとばかり難しい音楽と思われていたジャズを親しみやすいものとした功績は見逃せません。

要するに、「ダンディな黒人ミュージシャンが熱演するファンキー・ジャズ」というわかりやすいストーリー性が、音楽の素晴らしさをヴィジュアル面からも、キャッチ・コピーからも後押ししていたのですね。そして、その大部分をモーガンが背負っていたのですからたいしたものです。

余談ですが、当時の記事を見ると「黒人、黒人」と今では少々はばかられるほどに人種についての記載が目立つのですが、じつはこれ、そのころの日本人はジャズが黒人音楽であることをあまりよくわかっていなかったらしいのですね。というのも戦後まもないころの来日ジャズマンは白人が多く、何しろ大評論家、油井正一先生からして、活字情報でしかジャズに接することができなかった戦時中は、当然ジャズは白人が演奏していると思っていたぐらいなのですから……。

と、こうして60年代ジャズ・ブーム解説みたいなことをしてきましたが、じつをいうとこの分析はそのままモーガンの音楽の魅力を説明しているのです。

ひとつずつ見ていきましょう。

まずは「熱さ」です。モーガンのトランペットには熱気がこもっているのです。それは必ずしも「熱演」というだけのことではありません。トランペットの音の「温度感」がきわめて高いのです。たとえば、同い年のトランペッター、フレディ・ハバードのサウンドと比べてみると、明らかに「音自体」が熱いのです。

フレディだってモーガンに負けない熱演がいくらでもありますが、それを生み出した彼のサウンドは、50年代“ハード・バップ”に比べて「クールなテイスト」といわれた60年代“新主流派”の音楽にジャスト・フィットなのですね。

思うにそれは、フレディのサウンドが相対的に「クール」だから。裏返すと、“ハード・バップ”とはまさに相性ぴったりなモーガンも、率直にいって新主流派的な枠組みだと、若干浮き気味。これはフレージングの問題もありますが、やはり楽器の音の温度感が関係しているように思えます。

■ストリート感覚のジャズ

さて、この「熱気」が次のテーマ“ファンキー・ジャズ”に繫がるのです。

“ファンキー・ジャズ”というのは基本“ハード・バップ”なのですが、そこに黒人文化に由来するアーシー(土臭い)な感覚や、汗が飛び散るような熱気感を強力に注ぎ込んだ演奏スタイルのことを指します。ミュージシャンとしては前号のファンキー・ピアニスト、ホレス・シルヴァーやモーガンの雇い主であるブレイキー、そしてアルト・サックス奏者キャノンボール・アダレイなどが有名です。ですから、音自体がホットなモーガンはまさに適役なのですね。

そしてこのファンキー・テイストが今度はモーガンのファッション・センスに繫がるのです。ジャズはもともとストリート・ミュージック、つまりニューオルリンズのマーチング・バンドが発祥だといわれています。

その後ジャズはさまざまな変遷を遂げますが、とりわけ第2次世界大戦の影響は大きかったのです。

1930年代半ばに大人気を博した“スイング・ジャズ”は、ベニー・グッドマン楽団はじめデューク・エリントン・オーケストラなど、大所帯のビッグ・バンド・ミュージックでした。しかし戦争のため徴兵されるミュージシャンが多くなると、メンバーの維持自体が難しくなります。そしてそれを後押ししたのが、ダンス・ホールの閉鎖だったのです。緊急時に踊っている場合ではないということですね。

ちょうどそのタイミングで天才的アルト奏者チャーリー・パーカーや、同じくずば抜けた才能をもったトランペッター、ディジー・ガレスピーらによる“ビ・バップ”が勃興します。

即興演奏に重点を置いた“ビ・バップ”は、小回りの効くせいぜい6、7人程度のスモール・コンボによる演奏が向いていました。それらの結果として、40年代後半には狭いジャズ・クラブでも演奏できる“ビ・バップ”がジャズ・シーンの中心を占めるようになったのです。

その50年代における発展洗練形が“ハード・バップ”なのですが、音楽的洗練の度が上がるのと反比例するように、ストリート感覚、言い換えれば黒人文化に由来する庶民的生活感覚が減少していったのですね。

リー・モーガンのファッション・センスを見てください。ピッチリした細身のスラックスに、身体にぴったり合うというか、むしろつんつるてん気味なアイヴィー・ジャケットはいかにもやんちゃなストリート・ファッション。

60年代には、日本でも「VAN」など当時は物珍しかったボタンダウンのシャツに象徴されるアイヴィー・ファッション・メーカーが誕生し、モーガンの着こなしを真似たアイヴィー・スタイルが、日本の青少年の間で大流行したものです。面白いのは、彼らは銀座の「みゆき通り」を練り歩き、「みゆき族」なる名称を与えられた元祖ストリート・キッズだったのですね。

本来このファッションはハーバード大学などアメリカの名門校の生徒たちの着こなしから出た言葉ですが、日本ではむしろちょっと遊び好きな子供たちのお気に入り。そのモデルが、モーガンの少しばかり不良っぽい「着崩した」佇まいだったのです。

つまりモーガンはいい意味で人々の視線を気にするストリート感覚の持ち主で、それが黒人大衆の嗜好をしっかりと受け止めようとしたファンキー・ジャズとじつに相性がよかったというわけなのです。しかしそのファッション・センスは彼の女性問題と無関係なはずはありません。

余談ついでにビ・バップ・キング、パーカーの着こなしを見てみましょう。ちょっとデブ気味の体型のせいもありますが、大体においてファッション・センス、ゼロ。いかにも間に合わせ的というか、正直に言ってダサいジャケット姿はどう見ても「天才」らしくない。

うがった見方かもしれませんが、この、まったく他人の視線を気にしないスタンスが“ビ・バップ”の即興第一主義、言い換えれば芸術至上主義的な天才たちの音楽に通底しているのは、じつに興味深い現象だと思います。しかしそのパーカーはモーガンをしのぐほどモテまくっていたのですから、そのあたりがジャズマンの神秘なのでしょうね。

話をモーガンに戻すと、いい意味で人々の視線を意識した彼の庶民的ファッション感覚は、大衆の嗜好を重視した“ファンキー・ジャズ”と相性がよかったばかりではなく、より直接的には彼のフレージングの魅力にまで繫がるのです。

具体的な指摘は曲目解説に譲りますが、彼のトランペットの魅力はファンの反応を充分に意識した、独自の人懐っこいフレージングにあるのです。東京でいえば、下町っ子特有のざっくばらんな親しみやすさですね。これはたとえば、同じトランペッター、マイルス・デイヴィスの研ぎ澄まされた美意識などとは少しばかり趣の違う庶民的な味わいで、だからこそ、60年代の、まだあまりジャズに馴染みのなかった日本の一般的音楽ファンにも受け入れられたのです。

■独学でブラウンを目指す

リー・モーガンは1938年(昭和13年)にニューヨークに比較的近いペンシルヴァニア州の都市、フィラデルフィアに4人きょうだいの末っ子として生まれました。お姉さんがいる「末っ子」って、彼のやんちゃぶりや人懐っこさ、そしてちょっとばかり早熟な不良性と無関係とはいえないでしょう。

モーガンは子供のころから姉や兄に連れられてジャズ・ライヴを観に行き、なんと10歳にもならないうちにパーカー、ガレスピーはもちろん、マイルスやバド・パウエルなどの演奏スタイルをちゃんと聴き分けられる、立派なジャズ・ファンになっていたそうです。

14歳のときに家族からトランペットを買ってもらい、ほぼ独学で楽器をマスターしたというのですから、その才能はたいしたもの。

彼自身の言い分によると、いちばん尊敬していたのはガレスピーだけど、最初のアイドルはマイルス。その理由は、ガレスピーの演奏を真似るにはテクニックが追いつかなかったというのですから、けっこう計算していますよね。

しかし結局のところは圧倒的テクニックの持ち主であった名トランペッター、クリフォード・ブラウンが彼のアイドルとなるのです。そして、当然のようにブラウンの師匠格にあたる夭折の名トランペッター、ファッツ・ナヴァロもまたモーガンに影響を与えました。

つまりモーガンは、当時の大トランペッターすべてをちゃんと視野に入れつつ、最終的にはナヴァロ、ブラウンに連なるスタイルを目指したのです。それにしても、ナヴァロ、ブラウン、そしてモーガン自身も含め、全員が30代の半ばすら迎えることができず不運な死に見舞われたのは、偶然のことなのでしょうか?

ともあれ、3人に共通しているのは、全員がマイルスのような一種の「ムード派」ではなく、「テクニック派」のトランペッターであることです。

とはいえ、モーガンならではの特徴も当然あって、それは前にも書きましたが、彼のフレージングには特有の人懐っこさや、いい意味での下世話な親しみやすさがあるところです。モーガンのいちばんのアイドルであったブラウンの演奏が、どちらかというと純粋に音楽表現そのものに向かっていたのに対し、モーガンのトランペットからは彼のちょっとやんちゃっぽい「人柄」、言い換えれば「個性」が伝わってくるという違いですね。

付け加えれば、「ムード派」と称したマイルスは、「マイルス・ムード」ともいうべき独自の音楽世界を構築している点では、やはりモーガンとは表現の指向性が違っているように思います。

■デビュー、そして大ヒット

そして運命の出会いが起こったのは1956年のこと、アート・ブレイキーがザ・ジャズ・メッセンジャーズを引き連れフィラデルフィアにやって来たのです。そしてたまたま欠員の出たメッセンジャーズに臨時出演するチャンスを得ました。なんとモーガンはまだ高校生。

モーガンの才能に目をつけたブレイキーはさっそく正式入団を勧めるのですが、このときモーガンはもっと音楽の勉強をするという理由で断ってしまいます。その後、折よくディジー・ガレスピーもフィラデルフィアにやって来て、またもや欠員トランペッターの後釜に推薦されました。ついてますね。そして今度こそモーガンはプロになる決心をし、ガレスピー・オーケストラに参加してジャズマンとしてのスタートを切ったのです。

ガレスピー楽団に入ってから彼の名前はすぐにジャズ界に広まり、在団のままブルーノート・レコードに初レコーディングします。当時彼はまだ18歳でしかもリーダー作、これは驚くべき早熟さです。以後彼の名声は一気に高まり、多くのレコーディングをブルーノートなどに残していますが、肝心のガレスピー楽団は解散してしまいます。やはり時代がビッグ・バンド経営には向いていなかったのですね。

すると時を経ずしてブレイキーが再びザ・ジャズ・メッセンジャーズに入団を誘い、今度はモーガンもそれを受け入れたのでした。58年のことです。そしてブレイキーの『モーニン』がブルーノート・レーベルに録音され大ヒット、一躍ファンキー・ジャズ・ブームに火が点いたというわけなのです。

こうした経緯を経てメッセンジャーズ一行の61年の来日公演へと話は繫がるのですが、モーガン人気に拍車がかかったのが63年にブルーノートに録音したアルバム『ザ・サイドワインダー』の大ヒットでした。この曲はジャズ喫茶のリクエスト人気のトップだったばかりでなく、シングル・カットされ街中のジューク・ボックスでもかかり、文字どおり「ストリート・ミュージック」の地位を獲得したのです。

■1972年の悲劇

しかしモーガン人気がピークを迎えたのは60年代半ばまでで、それ以降は一種の低迷期を迎えます。しかしのちに当時の未発表レコーディングが陽の目を見ると、たしかに調子の波はあったにしろ、好調時のモーガンの沍えは一向に衰えてはいませんでした。

思い返せば、60年代半ばはジャズ・シーンの変革期でもあり、テナー・サックスの雄、ジョン・コルトレーンのフリー・ジャズへの接近やマイルスのエレクトリック路線など、ファンの耳目を集める話題に事欠かなかったため、相対的にモーガンの影が薄くなってしまったというのが真相のようです。

そして1972年、運命の時を迎えます。

折しもこの年はピアニスト、チック・コリアが話題作『リターン・トゥ・フォーエヴァー』(ECM)を録音し、のちのフュージョン・ブームのきっかけを作ったジャズ・シーンの転換点でした。モーガンはライヴの休憩時間に長年つき合っていた年上の女性に手切れ金を提示し、他の女と結婚するから別れようと持ちかけたのです。しかもその場に当の若い許婚まで同席していたというのですから、これはあんまりやり方がうまくない(と思います)。激高した年上女性は、なんと32口径リボルバーでモーガンの心臓に狙いをつけ、弾を発射。

ともあれ、モテすぎの挙句の非業の死というストーリーもまた、いかにもジャズマン的。しかしファンとしては、まだまだやるべきことがたくさんあったモーガンの早すぎる死は、残念というしかありません。

文/後藤雅洋
ごとう・まさひろ 1947年、東京生まれ。67年に東京・四谷にジャズ喫茶『いーぐる』を開店。店主として店に立ち続ける一方、ジャズ評論家として著作、講演など幅広く活動。

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