文/後藤雅洋
ジャズ・トランペッターの中で誰が一番トランペットが巧いのかと聞かれたらなら、私はまずクリフォード・ブラウンの名前を挙げます。
この意見にはあまり異論は出ないのではないでしょうか。しかし若干の疑問はあろうかと思います。マイルス・デイヴィスはどうなんだ? ルイ・アームストロングは? そして、“ビ・バップ”の中心人物のひとり、ディジー・ガレスピーの評価は? などなど……。
よくわかります。若くして自動車事故で亡くなった不運のトランペッター、クリフォード・ブラウンの特徴、個性、聴きどころは、マイルスはじめ、当然比較されるべき多くの名ジャズ・トランペッターたちとの「違い」を通して明らかになるでしょう。
いろいろな比較ポイントがありますが、最初に指摘しておきたいのは「楽器の特性」です。
人類が音楽を発明して以来、笛や太鼓など多くの楽器が作られましたが、それらはそれぞれ異なった音色・特性をもっています。打楽器はリズムの表現は得意でも旋律は無理とか、弦を弾いた音と笛の音は違って聴こえるなど、私たちは体験的にこうしたことを知っています。ですから演奏技術のひとつに、楽器の特性・長所を生かすということが当然考えられます。
では、トランペットは? この楽器は、大昔の進軍ラッパなどが進化したものと考えられています。なんと古代エジプト王朝時代に、すでに金属製の軍用ラッパがあったそうですね。
特徴はふたつ。まず大きな音が出せること。ふたつ目は鋭く耳につきやすい音色です。これは屋外の戦場で味方の士気を鼓舞したり、しかるべき進軍や退却の合図を発する上で当然求められる機能ですよね。私たちは遠くの人に声をかけようとするとき、手をメガホンのようにして「おーい、おーい」と呼びかけます。トランペットの祖先ラッパは、動物の角や金属でメガホン型を作ったものでした。
ところで、音はその音を発するものを叩いた音と同じ傾向の音が出るものです。木魚はポクポク、銅鑼はガンガンなど。つまり金属でラッパを作ると、音もキンキン・カンカンした耳につきやすい音が出るのですね。これは進軍ラッパに適している。というわけで、トランペット本来の特徴とは、まず遠くまで届く大きな音と、耳につきやすい輝かしい音色が挙げられるでしょう。
この、トランペットならではの特性・長所を最大限に発揮しているトランペッターこそが今回の主人公、クリフォード・ブラウンなのです。
こうした視点で眺めてみれば、マイルスは巧みな戦略を用いているのがわかります。
彼はチャーリー・パーカーのサイドマン時代、それまでパーカーの相棒だった名トランペッター、ディジー・ガレスピーのハイ・ノート(高い音)に憧れましたが、すぐに自分にはそれが出せないことを悟ったのでした。というのも、トランペットは唇のぷるぷるという振動を金属の管で拡大して大きな音を出しているので、先天的な身体の特徴が、出せる音域・音色をある程度決めてしまうのです。
しかし、賢いマイルスはそれを逆手にとって、トランペットの開口部に被せる「ミュート」という弱音器で、わざとくぐもったような音を出し、それを自分の個性・持ち味に変えたのです。
このマイルスの作戦はけっして邪道ではなく、ジャズという音楽の本質にのっとっているのです。というのも、ジャズという音楽の方向性を定めたジャズの父ともいうべき大トラペッター、サッチモことルイ・アームストロングは、もともと西洋音楽のために使われていたトランペットから「自分好みの音」を出してもいいというジャズの基本原則を確立させたのです。
ルイの人間味溢れるトランペット・サウンドは、クラシック音楽で聴かれる透明な音色とはかなり異質。
ほかのトランペッターと比べてみると、クリフォード・ブラウンの特徴がはっきりと見えてきます。トランペットならではの輝きのある音色を生かしつつ、彼もまた、きわめて人間味溢れるサウンドを生み出すことができる稀代の名トランペッターなのです。
「楽器の特性」という視点からはこうした事情が見えてきますが、次は当然本題ともいうべき演奏技術でしょう。
■個性の発揮こそが巧さ
ところで、「楽器が巧いかどうか」という事実は誰が見ても一目瞭然のようですが、そこに「ジャズ」という要素が絡むと微妙な問題をはらんでくるのです。それは「譜面」があるかどうか、あるいは「アドリブ」の問題と言い換えることもできるでしょう。
クラシック音楽はバッハやモーツァルトといった作曲家の書いた楽譜があり、ポピュラー・ミュージックも譜面に従って演奏され、アレンジもだいたい固定されているケースが多いようです。こうした音楽では、素人でも「音程が外れ」たり、「アレンジの不揃い」などがあれば「なんかヘン」と気がつきますよね。つまり演奏の巧拙は誰にでもわかるというわけなのです。
他方、私も含めジャズを聴き始めたばかりのころは「アドリブ」というものがよくわかりません。譜面がないので、はたして正しい音を出しているのか間違っているのか、判然としませんよね。ですから、ごく普通の意味でいう「楽器が巧いのかどうか」がわかりにくいのです。
要するに「正しい音をきちんと出しているかどうか」というクラシック音楽やポピュラー・ミュージックの基準軸が通用しないのです。
この問題の答えは、ジャズマンがアドリブをやる理由・目的を考えればわかります。彼らはけっして奇をてらってアドリブをとっているのではなく、「他人と違うやり方」で音楽を演奏することで、自分だけの個性を発揮しようとしているのです。
ということは、出てきた音が個性的で魅力的ならば、その演奏はOK、つまり巧い演奏なのだということなのです。
このジャズならではの「巧拙の基準軸」を当てはめてみると、前述のサッチモもマイルスもみな等しく「たいへん巧いトランペッター」ということができるのですね。
サッチモのトランペットからはたとえようもない人間味が、そしてマイルスのミュート・サウンドは、それだけで「これはマイルスの音だ」と聴き手に強烈な個性が伝わってきます。
では、ブラウニー(クリフォード・ブラウンの愛称)は? 彼の場合はごく普通の意味でも楽器が巧いのです。これはすごい。その巧さの中身は、まずトランペットならではの聴かせどころ、ハイ・ノート(高音)を的確にヒット(出す)させることができるのです。
この技術は表現の幅を広くできるという意味でたいへん有利。そして、わかりやすい楽器の巧さである、素早く的確な音の移動がきわめて正確・確実なのです。という具合に、ブラウニーの演奏技術はまさに天下一品。
付け加えると、ブラウニーの場合、一般に「わかりいくい」といわれている「アドリブ」も、あたかも自然な旋律の流れを聴くようにごくスムースに耳に入るので、まさにその音が「正しい音なのだ」という実感をもつことができるのですね。この事実は次のテーマに繫がります。
■“音楽を奏でる”個性
さて最後に残った、ジャズでもっとも大事な、演奏技術によって表現される「個性的表現」という評価軸では、ブラウニーはいったいどう評価されるのでしょうか?
サッチモのホットなサウンドが、あの大きな目玉をくりくりさせた彼の人懐っこい人柄を彷彿させ、マイルスのミュートがブルーでクールなマイルス・ムードを描き出しているとしたら、ブラウニーの輝かしいトランペットは「音楽そのもの」を指向しているのです。「人柄」や「ムード」ではなく、まさに「音楽」を表現しているのですね。
だからこそ、ブラウニーのアドリブ・ラインは、あまりジャズを聴き慣れていないファンの耳にも、「メロディの延長」という自然な感覚で受け入れられるのです。
■ガレスピーに励まされ
クリフォード・ブラウンは、1930年(昭和5)にニューヨークの南西に位置する東海岸デラウェア州ウィルミントンに生まれました。世代的には1926年生まれのマイルス・デイヴィスの少し下で、1929年生まれの白人ウエスト・コースト・ジャズ・トランペッター、チェット・べイカーとほぼ同世代。多くのジャズマンたちと同じように、ブラウニーも幼少期から楽器に親しみ、13歳にしてトランペットの個人教授を受けています。
注目すべきは15歳のときに、地元のミュージシャンで有能な音楽教師でもあったロバート・ボイジー・ロウリーという人物につき、トランペットをはじめピアノの演奏技術、音楽理論を学んだことです。この世代のジャズマンは、音楽一般の基礎知識が身についているのですね。
そして17歳になると、地元でジャズを演奏するようになりました。時は“ビ・バップ”真っ盛りの47年、当然アイドルはビ・バップ・トランペッターの雄ディジー・ガレスピーや、夭折の名トランペッター、ファッツ・ナヴァロ。
ブラウニーの経歴でちょっと興味深いのは、奨学金を得て地元のデラウェア州立大学に進学するのですが、たまたまそこには音楽科がなく、やむをえず数学科に入ったという話です。彼、数学も得意なのですね。このエピソードは生涯麻薬に手を出さなかったブラウニーの真面目な性格とあわせて考えると、彼の整然とした音楽的構成力に結びつくような気もします。
このころからジャズの中心地ニューヨークに比較的近い、隣のペンシルヴァニア州フィラデルフィアのジャズ・シーンにも顔を出すようになります。そこでパーカーのサイドマンを務めたトランペッター、ケニー・ドーハムはじめ、マイルス・デイヴィスなど多くのミュージシャンたちと共演する機会を得ましたが、とりわけファッツ・ナヴァロはブラウニーの実力を認め、引き立ててくれました。ちなみに、ブラウニーのストレートで輝かしいトランペット・スタイルは、ナヴァロ直系といえるものです。
また、たまたまフィラデルフィアを訪れたガレスピー楽団に臨時に参加するチャンスが訪れ、その際ブラウニーのただならぬ才能に驚いたガレスピーは、本格的にジャズマンへの道を歩むことを勧めました。それに応え、ブラウニーは音楽科のあるメリーランド州立大学に転校し、正式に音楽の勉強を始めるのですが、折悪しく交通事故に遭い、長期の入院生活を余儀なくされます。
それにしても、のちの彼の早過ぎた自動車事故死を思うと、ブラウニーは自動車とは相性が悪いようですね。
その病床生活の最中、アイドル、ナヴァロの死を知り落ち込んだブラウニーを励ましてくれたのが、ガレスピーでした。そこで一念発起したブラウニーは、卒業を待たずにプロ・ミュージシャンへの道へと歩み出すことを決意するのです。
彼の進路決定にはナヴァロ、ガレスピーというともに偉大なバップ・トランペッターが関与していたのです。
■マイルスと競うように
1953年、まさに“ハード・バップ”前夜の年にブラウニーはジャズの中心地ニューヨークに進出します。翌54年、ブルーノート・レーベルが録音した名ドラマー、アート・ブレイキー名義のアルバム『バードランドの夜』に参加し、「ハード・バップの夜明け」を告げる新人スターと喧伝されることになりました。
そして彼もまた偉大なドラマーであるマックス・ローチに誘われて西海岸に赴き、史上名高い「クリフォード・ブラウン&マックス・ローチ・クインテット」を結成し、数々の名盤をエマーシー・レーベルに吹き込むことになるのです。メンバーはローチの他にテナー奏者ハロルド・ランド、ピアニストはバド・パウエルの弟であるリッチー・パウエル、そしてベーシストはジョージ・モロウです。
この54年にできた、ブラウニーとローチが対等の立場でリーダーシップを握る「双頭クインテット」は、“ハード・バップ”の条件ともいうべき新型レギュラー・コンボの典型でした。
説明すると、一瞬のアドリブの冴えにすべてを賭けた“ビ・バップ”は、突き詰めればソロイストの才能でほとんどが決まってしまうので、サイドマンの役割はビ・バップの演奏のやり方さえ理解していれば、誰でもよかったのです。それに対し、音楽をより総合的に捉えようとする“ハード・バップ”ともなると、メンバー相互の意思の疎通が大切になります。ですから臨時メンバーではない、恒常的レギュラー・グループの必要性が求められたのでした。
その嚆矢とされるのは、早くも52年に結成されたMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)なのですが、それに続くハード・バップ・コンボこそが「クリフォード・ブラウン&マックス・ローチ・クインテット」だったのです。
ちなみに、彼らと覇を争う、テナー・サックス奏者ジョン・コルトレーンを擁する「マイルス・デイヴィス・クインテット」が誕生するのは、翌55年のことです。つまり55年から56年にかけて、マイルスとブラウニーはシーンの中央で“ハード・バップ”なる新しいジャズ・スタイルの最良の演奏例を競うようにしてファンに示していたのです。
しかしこうした夢のような時代は56年にブラウニーの不慮の事故で終焉を迎えます。
「もしあの時」というのはよくいわれることですが、仮にこうした災難がなかったとしたら、ブラウニーの進撃はまだまだ続き、当然ライバルであったマイルスの進路だって変わっていた可能性は充分に考えられます。
56年6月26日深夜の自動車事故は、ジャズ・シーンのその後に計り知れない影響を与えた「事件」だったのです。
文/後藤雅洋
ごとう・まさひろ 1947年、東京生まれ。67年に東京・四谷にジャズ喫茶『いーぐる』を開店。店主として店に立ち続ける一方、ジャズ評論家として著作、講演など幅広く活動。
ジョン・コルトレーン|ジャズの究極にフォーカスし続けた求道者
アート・ブレイキー |燃えるドラムで世界を熱狂させたジャズの“親分”
チャーリー・パーカー|アドリブに命をかけたモダンジャズの創造主
オスカー・ピーターソン|圧倒的な演奏技術でジャズの魅力を伝えたピアニスト
ビル・エヴァンス|「ピアノ音楽としてのジャズ」を確立した鍵盤の詩人
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ジョン・コルトレーン|情念をも音楽の一部にして孤高の道を驀進した改革者
クリフォード・ブラウン|完璧なテクニックと最高の歌心で音楽を表現した努力の天才