文/後藤雅洋
ジャズマンを大きくふたつに分けると、デビュー時からほとんどスタイルが変わらないタイプと、時代を追うごとに音楽性が変化するミュージシャンとに分かれます。
前者の代表は、多くの人々に親しまれた名ピアニスト、ビル・エヴァンスや、同じく幅広い人気を誇った大ピアニストであるオスカー・ピーターソンなどがすぐに思い浮かびます。彼らのジャズ・スタイルの大枠は、デビュー時からほぼ一貫しています。そのことと関連するのでしょうか、エヴァンス、ピーターソンにはファンの好みが極端に分かれるようなアルバムは少ないようです。
他方、それこそジャズ・シーンの変遷を一手に引き受けた感のある偉大なトランペッター、マイルス・デイヴィスなどは、まさに後者の代表選手でしょう。そして、今回の主人公ジョン・コルトレーンもまた、その音楽的変遷が話題になると同時に、彼の動静がジャズ・シーンに多大な影響を与えた、まさに「ジャズの巨人」なのです。
しかし、こうした「俯瞰図」は今だから描けることで、日本にジャズが幅広く普及しはじめた1960年代では、圧倒的にコルトレーンこそが「改革者」で、相対的にマイルスは「保守派」とみられていたのですから面白いものです。
一例を挙げると、後期コルトレーンの代表作『至上の愛』(インパルス)と、マイルスのライヴ名盤『フォア&モア』(コロンビア)はともに64年に録音されているのですね。私は67年にジャズ喫茶を開店したので、2枚とも同時代的新譜(そのころは、レコード盤は船便で運ばれてくることが多く、録音時から2〜3年は、ほぼ新譜と見なされていました)として聴いています。
しかし両者のイメージは対照的で、マイルス盤が斬新ながらまさに「ジャズ」としてファンに受け入れられたのに対し、コルトレーンの音楽は「こういうのもジャズなのか!」といった驚きをもって迎えられたのです。
ところが、数年を経ずしてマイルスが“エレクトリック・ジャズ”の方向に大きく舵を切ると、「こんなものはジャズではない」とまで一部のファンから非難されたのに比べれば、まだまだ『至上の愛』時代のコルトレーンは「ジャズ内部」と見なされていたのでした。面白いものですね。
■フリー・ジャズへの傾倒
と、昔話をしていたら、コルトレーンとマイルスの音楽の大きな違いに思い当たりました。それは『至上の愛』の翌年、1965年に録音された問題作『アセンション』です。
この作品は後期コルトレーンの特徴をよく表しています。そのころ、コルトレーンは若手フリー・ジャズ・ミュージシャンたちに肩入れし、彼らに発表の場を与えるべく総勢11名にも及ぶ壮大な実験作を、自らが専属するメジャー・レーベル、インパルスに吹き込んだのです。
“フリー・ジャズ”は、みなさんが想像しているより昔からあるジャズ・スタイルで、早くも1950年代の後半にアルト・サックス奏者オーネット・コールマンや、前衛的ピアニスト、セシル・テイラーらによって試みられています。そして彼らの影響のもと、60年代になると多くの若手ミュージシャンがフリー・ジャズ的演奏を繰り広げるようになりました。
本来、伝統的なジャズマンだったジョン・コルトレーンは彼らに強い関心を示し、アルバム『アセンション』で彼らをサイドマンとして起用したのです。私も「新譜」として購入して聴きましたが、率直にいって「壮大な実験作」の域を出ているようには思えませんでした。
しかし、その影響力は当時においては絶大で、それまで「日陰の存在」だったフリー・ジャズ・ミュージシャンにも活躍の場が与えられたことは、コルトレーンの功績のひとつといってよいでしょう。
他方、マイルスはというと、60年代後半以降はそのころ音楽シーンの主流となりつつあったロック・ミュージックの要素を大幅に取り入れた方向へと転換し、それまでのマイルス・ファンたちの間に賛否両論の嵐を巻き起こしたのです。ちなみにマイルスは、自伝などでさかんに“フリー・ジャズ”に対する不信感を表明しています。
ここからが面白いのですが、実際のエレクトリック・ジャズのマイルスは、ある意味でフリー・ジャズがもたらすカオス(混沌)感覚に似た興奮を聴き手に与え、一見ロックとは水と油のようなフリー・ジャズ寄りの姿勢を示した後期コルトレーンの音楽は、多くのロック・ミュージシャンの精神的共感を得るところとなったのです。
こうした60年代半ばから後半にかけてのコルトレーンとマイルスの対照的スタンスと、その影響関係の「ねじれ現象」は、まさに彼らの音楽的スケールの大きさを表しているといえるでしょう。
他方、こうした事実はマイルス、コルトレーンのファン層が、ともに「前期ファン」と「後期ファン」に分かれがちな状況を生み出してもいるのです。このあたり、まさにエヴァンス・ファン、ピーターソン・ファンとは対照的ですね。
「後期コルトレーン」は、まずコルトレーン・ファンになってから挑戦することによって、その本来の魅力が姿を現すといってよいでしょう。というのも、60年代に圧倒的な影響力を誇った「フリー寄り後期コルトレーン」からジャズを聴き始めた当時の「ジャズ喫茶族」の多く(学生さんが多かった)が、どういうわけか就職と同時にジャズから遠ざかってしまうのを私は目のあたりにしているからです。
この方たちは青年期特有の心理で「過激で情熱的な音楽」に惹かれても、「ジャズそのものの魅力」にまでは手が届かなかったのでしょうか……。その方々にも、あらめて「ジャズ・ファン」となっていただきましょう!
■“モンク”以前と以後
テナー・サックスの巨人、ジョン・コルトレーンの経歴、音楽的特徴について、簡単に振り返ってみましょう。
コルトレーンが多くのジャズ・ファンの注目を集めたのは、1955年にトランペッター、マイルス・デイヴィスのサイドマンに起用されたからでした。
こうした言い方ですとマイルスのほうが先輩のように思われるかもしれませんが、じつはふたりとも1926年(昭和元年)生まれと同い年。しかし、「ビ・バップ革命」を主導した天才アルト・サックス奏者チャーリー・パーカーのサイドマンとして10代のころからジャズ・シーンの中心で活躍していたマイルスに比べ、相対的にコルトレーンが「遅咲き」なミュージシャンであったことは否めません。
実際、マイルス・バンドに参加した当時のコルトレーンは演奏技術にも若干問題があり、そのあたりをファンから指摘されたりもしていたのです。しかし持ち前の生真面目さで猛練習、ほんとうに日進月歩でジャズの基本である楽器吹奏技術、そして、それと同じように重要な音楽理論の理解において、格段の進歩を示したのです。
ジャズのアドリブは一見情熱の赴くまま演奏しているように思われがちですが、じつはかなり綿密な音楽理論に基づいた上での自由なのですね。ですから、理論を知らないと自由の幅も狭まるという、私たちには矛盾しているようにも思えるジャズマンの深刻な事情があるのです。
そして、この部分に適切な助言を行なったのがジャズ・ピアノの巨人セロニアス・モンクでした。
「モンク以前」と「モンク以後」の演奏では、明らかに違いがわかります。それらを聴き比べることによって、ジャズの魅力のキモともいえる「アドリブ」の成り立ち、聴きどころ、面白さが実感できることでしょう。
■ハード・バップを超えて
そしてもうひとつのポイントは、もっとも完成度が高いジャズ・スタイルといわれた「ハード・バップ期コルトレーン」にスポットを当てることによって、「ハード・バップの魅力」と、そのスタイルの内部における「コルトレーンの特異性」が浮かび上がることです。
要するにスタイルの内部にいつつ、スタイル自体を食い破りかねないコルトレーンの“業”ですね。業というのは、コルトレーンの場合、ジャズに向かう情熱が音楽的なものに収まりきらない、一種の「過剰さ」といってもよいでしょう。
1960年代に多くの青年たちがコルトレーンに惹かれたのは、必ずしも音楽的要素だけではなく、コルトレーンが政治・社会、そして宗教的なものに対しても深い関心があったからなのです。
他方、マイルスはというと、まさに「ジャズが恋人」といってもいいほど音楽が好きで、一見ロック寄りの姿勢を見せたとしても、それは自分の音楽的可能性を広げるためでした。このふたりの同い年の「ジャズの巨人」の音楽に対する姿勢には、微妙な違いがあるのですね。
マイルス・バンドのサイドマンとしてジャズ・シーンの中央にコルトレーンが登場したとき、まさにマイルスは“ハード・バップ”という新しいジャズ・スタイルを完成させつつあったのです。つまりコルトレーンはその「渦中」からスタートしたといってよいでしょう。
そして、ともに「決められた枠」に収まりきらない巨人たち、マイルスとコルトレーンは、少しずつ“ハード・バップ”というジャズとしては完成形ともいえる使い回しのよいフォーマットを食い破り始めます。
彼らの動きは、ほぼ並行しており、ともに59年という区切りの年に、それぞれマイルスは『カインド・オブ・ブルー』(コロンビア)、コルトレーンは『ジャイアント・ステップス』(アトランティック)という“ポスト・ハード・バップ”ともいうべきアルバムを世に問いました。「区切りの年」といったのは、この2作に加え、「フリー・ジャズ旋風」を巻き起こしたオーネット・コールマンの『ジャズ来るべきもの』(アトランティック)も、この年に録音されているからです。
マイルス、コルトレーン、そしてオーネットというジャズ史上の最重要人物が奇しくも同じ年に「ジャズの完成形」とも思えるスタイルを乗り越えようとしたのですね。
■“情念”までも音楽に表現
1960年代が始まろうとするこの時点では、マイルスもコルトレーンもともに「音楽的方法論」で“ハード・バップ”を乗り越えようとしていたのですが、気質の違いか、彼らの音楽の底流を流れているものには微妙なニュアンスの違いがみられるのです。
それがもっとも象徴的に現れたのが前出の2枚のアルバムで、マイルスの『フォア&モア』が「斬新なジャズ・スタイル」という「音楽的印象」を60年代のジャズ・ファンに与えたのに対し、コルトレーンの『至上の愛』からは、私も含めファンは何かしらドロドロとした「人間の情念」のようなものを受け取ったのですね。
この「音楽的なもの」と「情念的なもの」の違いこそが、コルトレーンの音楽を他のジャズマンたちから際立たせるもっとも重要なポイントなのです。
あえて極論すれば、この「情念的なもの」に60年代の若きジャズ・ファンたちは魅せられたのではないでしょうか。というのも、そのころ盛んだった学生運動家たちの合言葉のひとつに、「情念」というきわめて日本的なキーワードがあったからです。
そして、そのジャズ・ファンのたまり場であるジャズ喫茶では、コルトレーンを聴いてデモに行くという風俗がみられたのですね。まさにその現場にいた私には、当時の風潮がよくわかるような気がします。
とはいえ、「情念」からジャズには入れないのですね。ジャズは普通の方々が思っているよりは、はるかに理論的な音楽で、その部分だけを取り上げればむしろ理性的な音楽ともいえるでしょう。というのも、前述したように一見奔放にみえるジャズマンたちの情熱的な演奏も、音楽理論の裏付けがなければ一歩も先に進めないという基本構造があるからです。
といってもそれは聴き手にとってはさほど難しいことではなく、一定の音楽様式の中から各ミュージシャンの個性、美意識を聴き取ることにすぎないのです。それは、あらかじめ人々に共有されている「物語の構造」に従って小説を楽しむことや、たとえば、「印象派」などといった一定のスタイル、傾向をもった美術作品を、その文脈に沿って鑑賞することとまったく同じなのですね。
そして“ハード・バップ”というジャズの演奏形式は、そこからジャズの聴きどころを実感するのに、もっとも適したスタイルといえるのです。
文/後藤雅洋
ごとう・まさひろ 1947年、東京生まれ。67年に東京・四谷にジャズ喫茶『いーぐる』を開店。店主として店に立ち続ける一方、ジャズ評論家として著作、講演など幅広く活動。
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