文/後藤雅洋
「ジャズ耳養成マガジン」もすでに20号目、読者のみなさんの〝ジャズ耳〟もかなり進んだことと思い、ちょっと意表を突くことを申し上げましょう。「マイルスやコルトレーンのファンは〝ジャズ・ファン〟とは限らない」。どうです、かなり「暴論」っぽいでしょう。しかしこれはジャズの世界で半世紀近く生きてきた私の実感でもあるのです。じっくりと説明しましょう。
マイルス・デイヴィス(トランペット)は第1級のアーティストです。音楽の質も非常に高く、彼の歩んだ足跡が〝ジャズ〟の枠を広げ、多くのファンを魅了しました。ある意味でマイルスの音楽は〝ジャズ〟を超えて〝マイルス・ミュージック〟となっている。また、ジョン・コルトレーン(テナー・サックス)の演奏は、その突き詰めた情熱、パッションが多くの青年を惹きつけ、彼らの生き方にまで影響を与えました。この人たちの音楽は100%ジャズでありながら、どこかしらジャズを突き抜けてしまったようなところがあるのですね。ミュージシャンとしてのスケールが大きすぎるのです。
つまりマイルスやコルトレーンのファンは、彼らの「個人ファン」であることが多く、必ずしも音楽ジャンルとしての〝ジャズ〟全体が好きだとは限らないのです。わかりやすい例はマイルスの傑作アルバム『カインド・オブ・ブルー』(コロンビア)が1959年の発売以来、累計で1000万枚に及ぶ販売実績を誇っていることでしょう。ポップスならまだしも、ジャズ・アルバムでは考えられない数字です。これは明らかに「ジャズ・ファン」の枠を超えた、より幅広い一般音楽ファンの間で聴かれている証左です。
要するにマイルスやコルトレーン、そしてビル・エヴァンス(ピアノ)などの〝A級ミュージシャン〟のファンは、彼らの才能が「ジャズの枠組み」を乗り越え、ある意味で普遍的と考えられている「芸術性」であるとか「人間的魅力」といった、より幅広い層にもアピールする部分に惹かれているケースが多いのですね。
そこで今回のテーマ〝B級ジャズマン〟が登場するのです。〝B級ジャズマン〟は、その存在・才能の全体がきれいにジャズの枠組みの中に収まっていて、はみ出すところがない。ということは、彼らの魅力=ジャズの魅力といってもいいのです。結果として、〝B級ジャズ・ファン〟は間違いなく「ジャズ・ファン」であるという、興味深い現象が生じるのです。
■B級ファン=〝ジャズ〟・ファン
最初に申し上げておけば、ジャズ・ファンがいう〝B級〟は〝二流〟とは違います。二流品は一流品より劣っているものを指しますが、B級という言葉のニュアンスは、判断基準が微妙に異なっているように思えます。発祥は1980年代後半に始まった「B級グルメ」からの連想でしょう。誰しも気軽に食べる町のお肉屋さんのコロッケの味を、ミシュラン三ツ星レストランの〝クロケット〟と比較したりはしませんよね。
ジャズに話を戻せば、今回登場するハンク・モブレーやティナ・ブルックス(ともにテナー・サックス)などは、けっしてジャズ・シーンを動かすような「イノヴェーター=改革者」ではないのですが、全身が「ジャズ漬け」になっている彼らの演奏からは、まさに「ジャズの匂い」が色濃く立ち昇ってくるのです。あたかも、空腹の胃袋にソースカツ丼から立ち昇るホカホカの湯気がきわめて魅惑的に映るように!
〝B級ジャズマン〟はだいたいがハード・バッパーです。つまり〝ハード・バップ〟というきわめてよくできたスタイルの枠組みの中で独自の個性を発揮するタイプ。マイルスやチャーリー・パーカー(アルト・サックス)のように、ジャズの枠組み自体を新たに作り出すことはしていない。こういうタイプのジャズマンは「ジャズの聴きどころ」を掴んでいないと、「みな同じ」に聴こえがち。 ここに逆説が生じるのです。つまり〝B級〟といわれている人たちの魅力は、ある程度ジャズの「聴きどころ」を掴んでいないとわからない。といっても別に難しいことではありません。ジャズの本質でもある「個性」をしっかりと掴む。これに尽きます。しかしそれには漫然と聴いていてはダメ。言い方は悪いかもしれませんが、マイルスの音楽はそのブルージーなムードだけでも「マイルスだ」とわかるし、コルトレーンなどは「流し聴き」でも強烈なサウンドは耳に突き刺さります。
しかし、〝ハード・バップ〟という「同じ枠組み」の中で個性を発揮するモブレーやらブルックスの特徴は、もう少し控えめ。ですから、注意深くフレーズに耳を張りつけ、音色やらリズム、「間」の取り方、そして「言い回し」のクセをしっかりと確認しなければわからないのです。どうです、これだけでも〝B級ファン〟は「耳の確かさ」を要求されることがおわかりかと思います。そしてこの場合の「耳の確かさ」は、「ジャズ」という特別の音楽ジャンルならではの「聴きどころ」を掴んでいることに通じる。つまり正真正銘の「ジャズ・ファン」であるということなのです!
もしかすると、ここにジャズという音楽がもつ「二面性」が表れているのかもしれませんね。それは「芸術音楽」としてのジャズと「黒人伝統音楽」としてのジャズです。もちろんこれらの要素はお互いに混ざり合っていて、要は「程度問題」でしょう。そしてここに第2の「逆説」が生まれるのです。それは「芸術的感受性」があればジャズがわかるとは限らないという面白い現象です。優れた感受性だけではジャズがもつ魅力の深みには到達できないのです。
文/後藤雅洋(ごとう・まさひろ )
1947年、東京生まれ。67年に東京・四谷にジャズ喫茶『いーぐる』を開店。店主として店に立ち続ける一方、ジャズ評論家として著作、講演など幅広く活動。
>>「隔週刊CDつきジャズ耳養成マガジン JAZZ100年」のページを見る
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