「ヤマト政権が“国家”へ変わりゆく過程です」
藤原京の道で墳丘が削られる
前方後円墳|五条野丸山古墳

奈良盆地の東南に位置する飛鳥地方(※現在の明日香村と、周辺市町[橿原市・桜井市・高取町]の一部。)には、大きさや形もさまざまな古墳が多数残っている。この地で1400年ほど前、政治的リーダーを務めた大王(おおきみ・天皇)ら有力者たちの墓が古墳である。
「飛鳥地方の古墳の形の変化から日本の国家の成り立ちが見えてきます」と話すのは考古学を専門とする相原嘉之さんだ。
相原さんがまず案内するのが五条野丸山古墳。飛鳥地方では珍しい前方後円墳で、全国6位の規模を誇る。これだけ大きな古墳に葬られたのはどんな人物なのか。
「欽明天皇(509~571)か、同時代の有力豪族の蘇我稲目(そがのいなめ) という説が有力です。古墳が大きいから天皇陵なのか、あるいは蘇我氏が天皇を凌ぐ力をもっていたとも考えられます」(相原さん、以下同)
五条野丸山古墳
橿原市五条野町・大軽町
入場:後円部の陵墓参考地の指定箇所以外は見学自由
交通:近鉄線岡寺駅から徒歩約5分
方墳|石舞台古墳
巨石30個を用いた蘇我馬子の「家族墓」

蘇我稲目の子で、聖徳太子(厩戸王)と政治を動かした男が蘇我馬子だ。その墓とされるのが石舞台古墳である。巨石が露出した石室は、前方後円墳ではなく、四角い形をした方墳(ほうふん)に造られた。
「前方後円墳はヤマト政権の一員であることを示すための古墳の形でした。一方で、蘇我馬子が権力を握った6世紀後半頃、中国や朝鮮半島では方墳が上層階級の墳墓として採用されていました。蘇我氏は、方墳を造ることで日本が東アジアの国際社会の一員であることを示したのでしょう」
石舞台古墳の石室は、ひとりを葬るには大きすぎる。相原さんが巨大な石を撫でながらこう話す。
「これは横穴式石室で、あとから追加で埋葬できるタイプです。馬子の家族墓だったのでしょう」

石舞台古墳
高市郡明日香村島庄
電話:0744・54・3240
開場時間:9時~17時(最終入場は16時45分まで)
入場料:300円
閉場日:無休
交通:近鉄線橿原神宮前駅東口または飛鳥駅から、奈良交通明日香周遊バスで石舞台下車すぐ
方墳|菖蒲池古墳
ふたつの石棺は蘇我蝦夷・入鹿のものか

蘇我氏の滅亡を語る古墳
石舞台古墳に続いて相原さんが案内するのが菖蒲池古墳だ。柵越しに、屋根の形をしたふたつの家形石棺(いえがたせつかん)が並んでいるのが見える。
「これが蘇我蝦夷(えみし)と入鹿の石棺である可能性が指摘されています」
蘇我馬子の跡を継いで権勢をふるったのが蝦夷と入鹿の親子だ。しかし栄華は続かず、645年の乙巳(いつし)の変で入鹿は殺され、蝦夷は自殺した。相原さんが続ける。
「この近くに小山田古墳という方墳があるのですが、造られて10年ほどで壊されているのです。蝦夷が自分の墓として造ったものの、乙巳の変ののちに壊され、この菖蒲池古墳に蝦夷と入鹿がまとめて葬られたとも考えられます」
窮屈そうなふたつの石棺は歴史の非情を無言で語っている。
菖蒲池古墳
橿原市菖蒲町
見学自由
交通:近鉄線岡寺駅から徒歩約20分
案内人 相原嘉之さん(奈良大学教授・58歳)

昭和42年、大阪府生まれ。奈良大学文学部文化財学科卒業。奈良国立文化財研究所、滋賀県文化財保護協会、明日香村教育委員会文化財課課長などを経て現職。近著に『飛鳥・藤原京と古代国家形成』。
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取材・文/藪内成基 写真/奥田高文

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