文/後藤雅洋

イメージを喚起する言葉というものがあります。日本では1969年に公開された映画の邦題『青春の光と影』などは、その最たるものではないでしょうか。ロック歌手ジョニ・ミッチェルの主題歌も有名ですよね。

原題は『Changes』ですが、これでは日本人には「なんのことやら」でしょう。この名タイトルは映画の内容から離れて独り歩きし、いろいろな対象を語るわかりやすいキーワードとなりました。

今回の主人公、“ウエスト・コースト・ジャズ”の人気トランペッター、チェット・ベイカーの生きざまは、まさにイメージとしての「青春の光と影」を地で行っているといっていいでしょう。

率直にいって、私など団塊世代ジャズ・ファンにとってのチェット・ベイカーは、「一時代前のスター」でした。その理由は、日本にジャズ・ブームが到来した1960年代初頭のジャズ・スタイルは、ちょうど“ハード・バップ”から“モード・ジャズ”への移行期にあたっており、もっとも人気があったのは“ハード・バップ”の変化形ともいえる“ファンキー・ジャズ”だったのです。

チェットがアメリカで注目を集めたのは、50年代前半から半ばにかけて一世を風靡したジャズ・スタイル、“ウエスト・コースト・ジャズ”を象徴するスター・プレイヤーとしてでした。若干のタイムラグを伴ってその人気が日本のファンに届いたのはだいたい50年代の後半、この時期はジャズ・ブーム前夜ともいっていい時代で、ジャズ・ファンはほんとうにひと握りのマニア集団だったのです。

私などの先輩にあたるそうした方々から「チェットっていいよねえ」という話は当然聞きましたが、いつの時代も若者は「最新流行」を追うものです。そして私がジャズに目覚めた60年代前半の最新スタイルは、白人流洗練ジャズ“ウエスト・コースト・ジャズ”の対極ともいうべき黒人テナー・サックスの巨人、ジョン・コルトレーンのきわめてアグレッシヴな演奏スタイルだったのです。

ですから、「生意気な」私たちは勝手にチェットを「過去の人」扱いしていたのですね。しかしそうした「偏見」は、思わぬきっかけで覆ったのでした。

1970年代に入ったころ、さる男性誌にチェットのポートレイトが掲載されたのです。最初は誰だかわかりませんでした。しかし妙に存在感のある顔つきに目を奪われキャプションを見れば、なんとチェットの最新ショット。

第一感は「えー、こんなになっちゃったの!」でした。というのも私たちが知っているチェットは、50年代のアルバムのジャケット写真で知られた典型的な「白人美青年」だったのです! それが雑誌に掲載された最新スナップでは、若かりしころの美貌は見る影もないほど衰え、しかしなんとも形容しがたい迫力に満ちた「男」に変容していたのでした。

それがきっかけで「じゃあ、ちょっと聴いてみようか」となったのですね。そうしたいきさつで彼の70年代復帰アルバムのいくつかを聴いてみると、今まで聴き逃していた微妙な肌触りというか、存在感があるのです。

人間はおかしなもので、鮮烈な顔写真が呼び起こしたチェットの演奏の見逃していた魅力に気がつくと、過去のアルバムにもそれがちゃんと宿っていたことが見えてきたのです。「青春の光」の象徴とも思える50年代の若々しいチェットには、その裏側に潜んだ「影」があったのですね。

ジャズマンにとっての「影」といえば、悪しき薬物中毒にほかなりません。70年代の相貌の「凄み」は言わずもがな、長年にわたる悪癖の代償というわけです。

思いがけないチェットのシーン復帰に伴って、真偽不明な噂がいろいろ伝わってきました。もっともショッキングだったのは、違法薬物の代金が払えなくなってギャングに歯を抜かれたとか、チェットのリーダー作品ジャケットに写っている謎の美女はギャングがチェットに付けた見張り役だとか、もうほんとうにアクション小説のストーリーを地でいくような破天荒ぶりです。

そうしたイメージを決定づけたのが謎の死の直前、1987年にファッション・カメラマンとして知られたブルース・ウェーバーが監督した映画『レッツ・ゲット・ロスト』でした。

このチェット自身が出演したドキュメンタリー映画で、彼は過去の悪癖について語ります。たとえば、共演もした同じ白人ウエスト・コースト・ジャズマンであるアルト・サックス奏者アート・ペッパーなどは、自伝で薬物体験を反省しています。まあ、当然ですよね。

ところがです。カメラを向けられたチェットは「正当化」こそしませんが、また反省しているようにもみえないのですね。ここが凄い。「業」が深いというか、まさにジャズマンなのです。

誤解していただいては困るのは、薬物によって演奏がよくなったということではまったくありません。そうではなくて、50年代チェットの若々しいジャケット写真がイメージする「光」の裏側に、薬物中毒というダークな「影」の部分があったことに象徴される「ジャズマンの業」というか「演奏の深み」に気づいたということなのです。まさに「青春の光と影」ですね。そういう意味では、ペッパーの音楽にも同様のことがいえると思います。

しかしペッパーの場合は彼の魅力の源泉でもある豊かな情緒表現によって、「陰影感」自体が明確に聴き取れます。ある意味でペッパーは「まとも」なのですね。それに比べ「反省しない(笑)」チェットは、ちょっと聴いただけでは「光」の強さによって「影」の部分が見えにくかったということなのでしょう。

■ベルリンで聴いたディジー

チェズニー・ヘンリー・ベイカー、愛称チェット・ベイカーは、1929年(昭和4年)アメリカ中部オクラホマ州の小さな村で生まれました。

生まれてすぐに州都オクラホマシティに移り住み、そこで10歳まで過ごします。そして家族揃って西海岸ロサンゼルスに移住しています。彼は西海岸が故郷ともいえるでしょう。

父親は、田舎の白人音楽ヒルビリーのラジオ番組をもっていて、ギターの弾き語りをしていたそうです。父親の血を引いたのか音楽に興味を示すチェットは、子供のころからアマチュア音楽コンテストで賞をもらうなど、多くのジャズマンの幼少期と同じ道を辿ります。

最初に買ってもらった楽器は父親の趣味でトロンボーンでしたが、その後トランペットに転向します。46年、まだ10代のチェットは徴兵され、第2次世界大戦後間もないベルリンに軍楽隊員として赴きます。そしてこのとき初めて海外に駐在する米軍慰問用のレコードで“ビ・バップ”を聴き、トランペッター、ディジー・ガレスピーのハイテクニックに驚嘆したそうです。

2年後に除隊してからはチェットの“ビ・バップ”熱はさらに高まり、夭折したバップ・トランペッター、ファッツ・ナヴァロや、“ビ・バップ”の開祖、アルト・サックス奏者チャーリー・パーカーのサイドマンだったトランペット奏者マイルス・デイヴィス、レッド・ロドニーといった連中の演奏に熱中していきます。それと同時に音楽理論の勉強もこの時期に身につけたようです。

そして40年代後半はロサンゼルス周辺のジャズ・クラブに出没してはジャム・セッションに参加し、腕を磨くと同時にミュージシャンの知り合いを増やしていきました。

そのまま当然ミュージシャンへの道を選ぶかと思いきや、チェットは再び軍隊へ入って軍楽隊員としての活動を行なうのです。もっとも今回の勤務地はサンフランシスコなので、勤務の合間に相変わらず地元のジャズ・クラブでのセッションには参加していました。

■パーカーとの出会い

2度目の除隊後、いよいよ本格的にプロ・ミュージシャンへの道を歩みだします。根拠地は再びロサンゼルスのジャズ・クラブです。

そうしたチェットにチャンスが訪れました。西海岸を訪れたチャーリー・パーカーがトランペッターのオーディションを行ない、見事採用されたのです。1952年のことでした。

しかし、そのままパーカーのサイドマンに収まってパーカーの本拠地ニューヨークに赴くかと思いきや、チェットは西海岸にとどまって活動することを選んだのでした。このあたりの彼の心境には興味がありますが、とりあえずは「西海岸の水が肌に合っていた」という程度の推測しかできません。別の見方をすれば、意外とチェットは欲がないのかもしれません。

結果論ですが、チェットにとってこの選択が吉と出たようです。のちにパシフィック・ジャズを興すプロデューサー、リチャード・ボックによって、バリトン・サックス奏者ジェリー・マリガンと出会う機会を得たのです。チェットの演奏をたいへん気に入ったマリガンは、さっそくバンドを組むことにしました。その楽器編成はかなりユニークなものでした。

当時のジャズ・バンドの平均的なフォーマットは、トランペットやサックス類のホーン奏者に、ピアノ、ベース、ドラムスの「リズム・セクション」が付くのが普通でしたが、マリガンがチェットと始めた新グループには、ピアニストがいなかったのです。

しかしこの変則的な楽器編成を生かしたマリガンの巧みなアレンジが評判を呼び、彼らの「ピアノレス・カルテット」は、“ウエスト・コースト・ジャズ”を代表するグループとしてジャズ雑誌でトップ・グループに挙げられたのです。このまま順調にいくかと思いきや、人気絶頂の53年、マリガンが違法薬物で拘留されバンドは解散を余儀なくされたのでした。

■マイルスを超える人気に

残されたチェットはやむなくピアニストを入れた普通のワンホーン・カルテットを結成し、活動を継続します。そしてマリガンが釈放されたあとも再びコンビを組むことはなかったのです。

そしてチェットの人気を確定的なものにしたのが、ヴォーカル作品『チェット・ベイカー・シングス』(パシフィック・ジャズ)でした。

「歌うトランペッター」はルイ・アームストロングが有名ですが、黒人ならではのアクの強いダミ声が魅力のルイに対し、サッパリ味というか、中性的な声質で歌うチェットの歌声は、ふだんジャズを聴かないような層にまで幅広くアピールしたのです。私などのちょっと上の世代のジャズ・ファンは、この時期のチェットの歌声に魅了されたようです。

その人気ぶりはたいしたもので、『ダウンビート』誌53年度国際批評家投票の新人賞に選ばれたのを皮切りに、翌54年には読者投票で第1位に輝くだけではなく、『メトロノーム』誌の読者投票でも54年、55年と連続して1位を獲得しているのですね。くわえてアメリカを代表する雑誌『タイム』にも記事が載るなど、デビュー間もない新人トランペッターがマイルスやルイを上回る人気を得たことは特筆すべきでしょう。

ところで晩年のチェットは、この時期を振り返ってけっこうクールな感想を述べています。いわく「ソフトでメロディックなスタイルが時代の要請に合っていたんだろう。今のほうがもっとうまく吹けるけれど……」。

55年、チェットは自らのカルテットを率いてヨーロッパ・ツアーに出かけます。一行は各地を巡演し大好評を得ますが、途中でメンバーが薬物の過剰摂取で急死してしまいます。やむをえずメンバーを入れ替えながらツアーを続けますが、どうやらこのころからチェットも薬物に耽溺するようになっていたようです。

■懲りない悪癖の遍歴

同年帰米したチェットは新たなバンドを組み、パシフィック・ジャズに録音を行ないます。翌57年にようやくチェットはジャズの中心地ニューヨークに進出します。そして黒人ハード・バップ・テナーの雄、ジョニー・グリフィンをゲストに迎えたアルバムをリヴァーサイド・レーベルに録音することとなりました。

59年、ついにチェットは薬物で逮捕されてしまいます。釈放後、ひとりで、かつて訪れた憧れの地イタリアに旅立ち、「レディ・バード」を現地のミュージシャンをサイドマンに迎えて録音しています。調子も上々です。しかしチェットはこちらでも薬物で逮捕されてしまうのです。

62年、出所記念の公演を行ない、勢いをかってイギリスで映画出演などもするのですが、ここでも薬物で逮捕、国外追放の憂き目にあいます。それにしても、この「懲りなさ加減」は尋常ではありませんね。

64年にようやくアメリカに戻ってきたチェットは再び西海岸で活動を始めるのですが、この時期の演奏はプロデューサーの意向もあったのでしょうが、どちらかというと大衆路線のアルバムが多く、ジャズマンとしてのチェットの力量が生かされているとはいいがたい作品が少なくありません。

そして例の受難事件でトランペッターにとって大切な歯を折られ、演奏活動中断という災難に見舞われます。

その後苦労してお金を工面し、ようやく前歯をすべて入れ歯にして復帰を目指すのですが、その後押しをしたのがディジー・ガレスピーだったのです。そして73年に至って、ようやく16年ぶりのニューヨークでのクラブ出演を果たしたのでした。

これをきっかけに前述のチェット再評価の機運が高まり、またチェットもその要望に応えたアルバムを発表しつづけたのです。

しかしどうやらチェットはヨーロッパのほうが肌に合っていたのか75年には活動拠点をヨーロッパに移し、88年にホテルの2階から転落死するまで、大量のレコーディングをヨーロッパ、そして日本のレーベルに行なったのでした。

それにしても「2階から転落死」というのも、ミステリーめいていますよね。あらためて彼の「影」の部分が思い起こされてしまいます。

文/後藤雅洋(ごとう・まさひろ)
1947年、東京生まれ。67年に東京・四谷にジャズ喫茶『いーぐる』を開店。店主として店に立ち続ける一方、ジャズ評論家として著作、講演など幅広く活動。

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