はじめに-藤原伊周とはどんな人物だったのか?
藤原伊周(ふじわらのこれちか)は、名門・藤原北家(ほっけ)に生まれ、天皇を補佐する関白を父に持つサラブレッドでした。光源氏のモデルでは? との説もあるほど容姿端麗で、和歌の才能にも優れていたことで知られています。では、実際の伊周とはどのような人物だったのか、史実をもとに紐解いていきましょう。
2024年NHK大河ドラマ『光る君へ』では、才色兼備の自信家の青年(演:三浦翔平)で、叔父・藤原道長(ふじわらのみちなが)と出世争いをするライバルとして描かれます。
目次
はじめに−藤原伊周とはどんな人物だったのか?
藤原伊周が生きた時代
藤原伊周の足跡と主な出来事
まとめ
藤原伊周が生きた時代
時は、摂関政治の最盛期。藤原氏は天皇の外戚となることで、天皇を補佐する摂政・関白の地位を独占し、絶大な権力を有していました。氏長者(うじのちょうじゃ、藤原氏トップ)を巡る争いも熾烈で、藤原伊周は若かりし頃からその渦に巻き込まれていました。
藤原伊周の足跡と主な出来事
藤原伊周は天延2年(974)に生まれ、寛弘7年(1010)に没しています。その生涯を、主な出来事とともに紐解いていきましょう。
父と妹の威光でスピード出世
藤原伊周は、天延2年(974)、摂政・関白を務める藤原道隆(みちたか)と歌人・高階貴子(きし/たかこ)との間に生まれました。名門貴族の嫡男として、12歳で元服し従五位下に列せられます。妹の定子(ていし/さだこ)が一条天皇の中宮に選ばれると、18歳で参議。続いて中納言、内大臣とスピード出世を果たし、正暦5年(994)には8歳年上の叔父・道長ら3人を飛び越えて、若干20歳で内大臣にまで昇進しました。
ところが、道隆が病に臥したことから陰りが見え始めます。道隆は自分の後任として伊周を押し、伊周は天皇に奏上する文書を、先に見る役目である内覧宣旨(ないらんせんじ)を受けますが、これは道隆が病の間だけ、という条件付き。それでは、と道隆は関白を辞し、伊周にこれを譲ろうとしますが、叶わず。
こうした背景には、道隆による強引な引き上げに、不満と不安を抱いていた多くの貴族の存在があり、特に一条天皇の生母で道長の姉である詮子(せんし/あきこ)は、伊周を関白にしないよう天皇に直談判したと伝えられています。
かくして道隆が没すると、関白はその弟・道兼(みちかね)が継ぐことに。しかし、すでに病を患っていた道兼は7日目に亡くなり、伊周と道長の間に氏長者の座を巡って駆け引きが行なわれます。結果、道長が伊周を越えて右大臣となり、氏長者として頭角を現し始めました。
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