文/後藤雅洋

おそらく日本でいちばん人気の高いアルト・サックス奏者は、アート・ペッパーではないでしょうか。それを実感したのは、1970年代に彼が意外ともいうべきカムバックを果たした際の、日本のジャズ・ファンの熱狂的歓迎ぶりを目のあたりにしたときです。

もちろん60年代から一定のペッパー人気はありましたが、それは極端にいうと2極分化しているようにみえました。人気アルバム『ミーツ・ザ・リズム・セクション』(コンテンポラリー)にリクエストが殺到する一方、コアなマニアは、当時入手がきわめて困難だった「イントロ」「アラディン」「タンパ」といったマイナー・レーベルでの演奏を賞賛していたのです。

付け加えれば『ミーツ・ザ・リズム・セクション』は音質が良かったことから、そのころ急激に増えだしたオーディオ・マニアの「音質チェック・アルバム」としても、バカにならない人気を博していたのです。つまり当時の私の目には2種類、あるいは3種類のペッパー・ファンが微妙に「住み分け」しているようにみえたのですね。

それに比べ70年代復帰の際は、より幅広いファン層の支持と同時に、さまざまなスタンスのファンが一体となって来日したペッパーを歓待したのです。

しかし、このことにいちばん驚いたのは、じつはペッパー自身でした。というのもペッパーはその実力に見合った一定のファンはいたにせよ、アメリカ本国においては、たとえばマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンのように持続した人気があったとはいえないからです。

その理由は音楽的な問題というより彼の私生活上のトラブルに原因があるのです。一時代前のジャズマンの悪習である薬物中毒にペッパーも侵され、その程度はファンの私ですら「ちょっと、それは」と心配するほど。彼は音楽活動している期間より、薬物の矯正施設に収容されていた期間のほうが長いのではないかと思えるほど、頻繁にこうした施設の厄介になっているのですね。まさにジャジーです。

ですからペッパーにしてみれば、異国の地で自分のことを覚えていてくれるファンがこれほどいるとは想像がつかなかったのも当然だったのです。

■伝統回帰の波に乗り復帰

この思いがけないペッパー人気にはふたつの側面があります。まず、ペッパーの音楽がきわめて日本人好みであること。もうひとつは1970年代当時、一世を風靡したフュージョンに対する反動です。

60年代後半に端を発するマイルスのエレクトリック路線は、思わぬ副産物として70年代後半にピークを迎えるフュージョン旋風をもたらしました。コンフォタブルでサウンド志向が強く、極端に技巧化したフュージョン・ミュージックは、むしろジャズと隣接したサブ・ジャンルと見なしたほうが適切で、伝統的ジャズ・ファンの音楽的嗜好とは微妙に齟齬をきたしていたのですね。

その結果、本来実力がありながら「電化ブーム」に乗り損なった感のあるオーソドックス・タイプのジャズマンたちに脚光が当たる、一種の伝統回帰現象が70年代初頭から少しずつ顕在化していたのです。

当時、シーンの中心をなしていたのはマイルス・デイヴィス・バンドと、彼のサイドマンだったテナー・サックス奏者ウェイン・ショーターとキーボード奏者ジョー・ザヴィヌルによる「ウェザー・リポート」で、同じくマイルス・バンドの元サイドマン、ハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレットといった新人ミュージシャンたちが人気を誇り、そしてサブ・ジャンルたるフュージョンが一定のファンを確保していました。

その一方で、アルト・サックス奏者ジャッキー・マクリーンであるとか、トランペッター、チェット・ベイカーといった、50年代60年代のオーソドックス・スタイルのスターたちが、エレクトリック・サウンドに対抗する形で70年代初頭あたりから少しずつシーンに返り咲いていたのです。

こうした機運の中、ペッパーがラテン・バンドを率いるヴァイヴラフォン奏者カル・ジェイダーのサイドマンとして77年に来日した際、リーダーそっちのけでペッパー・ファンが公演に殺到したのです。

■「日本人好み」の個性

もちろんペッパー人気はたんなる「機運」だけのなせる業ではなく、それを裏付けるペッパーの魅力の賜物なのですが、それこそが前述の「日本人好みのテイスト」だったのです。

本論に入る前に「日本人好み」というところを少々解説しておきましょう。もしかすると、この言い方に若干否定的なニュアンスを感じている方もいるかもしれません。それは文化輸入国日本ならではの現象で、「本場では」に対する若干の引け目の感情でしょう。わからないではありませんが、ことジャズに関しては必ずしもマイナス要因ばかりとは言いきれないのですね。

ジャズの本場アメリカは、多民族の寄り合い所帯による新興国家の宿命として、すべての表現にわかりやすさ、明確さが求められがちです。その半面、微妙なニュアンスだとか「翳り・陰影感」といった要素には意外と無頓着。その点、「侘び・寂び」の国日本は、アメリカのファンが気づきにくいペッパーの繊細な感情表現をちゃんと聴き取っていたのです。

ちなみに、1970年代リバイバル組の例として挙げたジャッキー・マクリーン、チェット・ベイカーといったジャズマンについても、やはりアメリカのファンが見逃しがちな細部まで、丁寧に日本のファンは味わっていたのです。つまり日本のジャズ・ファンは「日本人好み」という評価軸を少しも卑下する必要はないのですね。

という前振りの上で、あらためてペッパーの魅力を掘り下げてみましょう。まず最初に注目すべきはその圧倒的テクニックです。

ペッパーをはじめとするウエスト・コースト・ジャズマンはビッグ・バンド経験者が多く、楽器を正確に操るという音楽の基礎ができているのです。しかし、それはバンド・サウンドをきれいに揃えるという要求に応えるためで、優れたビッグ・バンド要員=好ましいソロ・プレイヤーとは限らないのです。その点ペッパーは技術に裏付けられた明確な個性を備えているので、スモール・グループでもキラリと輝くスター性があるのです。

そのペッパーの魅力を形作っているものこそが、まさに「日本人好み」とも称される、哀調を帯びた感情表現なのです。

情緒纏綿(じょうちょてんめん)、音自体が哀感に満ちているのですね。ペッパーが吹くアルト・サックスの音色・フレージングからは、溢れんばかりの情感が立ち昇ってくるのです。ですから一度ペッパーのフレーズを聴くと、すぐに「これはペッパーだ」と聴き分けることができます。

そしてそれこそがジャズがいちばん重要視する、個性の発現なのですね。

■長いブランクも「伝説」に

アーサー・エドワード・ペッパー・ジュニア、愛称アート・ペッパーは1925年(大正14年)アメリカ西海岸カリフォルニア州で生まれました。父親は船乗りでドイツの家系。そして母親はイタリア系、まさに枢軸国コンビ(古いですね)の間にペッパーは生まれたのでした。

ペッパーは母親が10代のころの子供でしたが、母親とはあまり折り合いがよくなく、5歳のときにドイツ人の血を引く祖母に引き取られて育っています。言ってみれば「複雑な家庭環境」で、このことがペッパーの性格や薬物依存、そして音楽性になんらかの影を落としているという見方は、あながち見当外れではないのかもしれません。

世代的には26年生まれのマイルスやコルトレーンとほぼ同世代。最初の楽器は演奏が難しいとされるクラリネットで、ちゃんと先生からレッスンを受けています。その後父親からアルト・サックスをプレゼントされ、これもマスター。ペッパー12歳頃のことです。

42年、ペッパーは16歳にしてプロとなります。そして翌43年には短期間アルト・サックスの名手ベニー・カーターのバンドで演奏したあと、有名なスタン・ケントン楽団に入ります。しかし当時はまだ第2次世界大戦中、ペッパーは兵役にとられてしまいます。44年のことでした。

戦後46年に除隊し、再びケントン楽団に復帰します。ちょうど20歳を迎えた年ですが、早くもアルコールや薬物に依存しはじめます。当時のジャズマンを取り巻く特殊な環境や、ペッパーのいささか内省的な性格もあったのでしょう。けれども、この悪癖は彼の生涯ついてまわります。

しかし、音楽生活での充実ぶりはまた別の話で、ペッパーは50年代初頭から西海岸のジャズ・シーンでは一目置かれる存在となり、自らのバンドも組織し優れた初レコーディングも残しているのですね。ですが、まさにその最中である53年に麻薬で逮捕。翌54年春には出所しますが、12月に再逮捕。どうしようもありませんね!

しかも、この手の「繰り返し」はその後もずーっと続くのです。ですから、ペッパーの活動歴は当然彼の「出所期間」に限られ、一直線ではなくいわば「点線的」に記録されていることになるのです。

その重要な「点」のひとつが1956年出所後の数年で、ワインの当たり年ではありませんが、ペッパーといえば、「56年物か57年物が豊作」がファンの常識でもあります。平均的なジャズ・ファンも知っている彼の活動歴、マイルス・バンドのサイドマンたちと共演した前記の『ミーツ・ザ・リズム・セクション』のセッションも、もちろんこの時期57年1月の出来事でした。

そして60年代ジャズ喫茶でのヒット・アルバムがこの57年録音の作品であることからも想像できるように、60年代以降のペッパーの音楽活動は日本のファンには知られないまま、前述したような「ペッパー住み分け人気」の時代が70年代の「復帰」まで、およそ10年以上も続いていたことになるのです。いわば主人公不在のまま「伝説上のジャズマン」としての人気であったともいえるでしょう。

こうした状況は活動が連続しているマイルスやコルトレーンではありえません。しかし似たようなケースは、前述の「リバイバル組」マクリーンや、50年代にペッパーと人気を二分したウエスト・コースト・ジャズのスター、チェット・ベイカーには当てはまるのですね。とりわけチェットの場合は麻薬癖の部分までペッパーの経歴と二重写しになるほど似ているのです。

■コルトレーンへの傾倒

話をペッパーに戻すと、この期間に私たち日本のファンにとっては意外とも思えるペッパーの「転向体験」があったようなのです。ペッパーの音楽性とは180度傾向が異なる、ジョン・コルトレーンへの傾倒です。

繊細でたおやか、自らソフトで洒脱なテナー奏者レスター・ヤングの音楽への憧憬を口にしていたペッパーの叙情的な演奏に比べ、彼が新たに傾倒しだした60年代コルトレーンは、その激情的で激しい演奏がファンの人気を博していたのですから、これはまさに対極。

しかし、この大きな転換は、ペッパー70年代の復帰まで日本のファンには伝わってきません。その理由はもうおわかりですよね。入所・出所の記録を辿るのも面倒になるほど頻繁な刑務所や矯正施設へのご厄介期間だったのです。

ですから、おそらく少しずつ自らの音楽性を変えていったに違いないのですが、日本のファンの目には「突然変異」のように受け止められたのですね。実際1975年にペッパーは15年ぶりの公式リーダー・アルバム『リヴィング・レジェンド』(コンテンポラリー)を録音したのですが、それを受け取った日本のファンは、ペッパーの復帰を喜ぶと同時に、一種の驚きも感じていたのです。

こうした経緯から70年代復帰後ペッパーの評価は二分されました。それまでファンが知っていた叙情的な50年代ペッパーを支持する「前期派」と、きわめて先鋭で時には攻撃的とも思えるフレーズが飛び出す復帰後ペッパーを擁護する「後期派」です。ただ両者ともにペッパーの復帰を温かく迎えるという立場では同じ土俵に立っているので、その対立はいってみれば仲間内の「楽しいジャズ談義」の域を超えるものではありませんでした。

個人的には音そのもののニュアンスや情感のこもったフレージングが魅力的な、50年代ペッパーのほうにシンパシーを感じますが、かといって復帰後のいわばハードボイルド・ペッパーの切羽詰まった表現の凄みも無視できず、「うーん」と思いつついろいろ聴き比べた日々が懐かしい。当時は「ペッパー、無理しているんじゃないかなあ」などとも思ったものですが、今になってみると、前期・後期に共通するペッパーの資質もなんとなく見えてきており、「後期ペッパーもわかる」という立場ですね。

ただ、リスナーとしての勝手なスタンスをあえてとれば、後期的な激しい表現で優れたジャズマンは、それこそコルトレーンはじめペッパー以外にもたくさんおり、「ワン・アンド・オンリーの魅力」ということでは、やはり前期に軍配が上がるように思います。そういう意味では、復帰後の名演「ザ・プリズナー」には「ペッパーの内面を含めたすべて」が表現されているといっても過言ではないでしょう。

■人間の弱さも音楽の力に

最後にペッパーの「恐るべき告白的自伝」とサブタイトルが付けられた『ストレート・ライフ』(スイング・ジャーナル社刊)に触れておきましょう。

この1981年に翻訳された自伝はたいへん優れた読み物で、アート・ペッパーの人となりや当時のジャズ、ジャズマンを巡る状況が生々しく描写されています。ずいぶん昔に読んだので細部の記憶は定かではありませんが、ペッパーの人間としての当たり前の弱さと、それとはまったく対照的な音楽的な凄みを比べるたびに、ジャズという音楽の「業」の深さに思いが至ります。

以下は個人的想像にすぎませんが、若き日50年代のペッパーの名演は、内面の葛藤をあるいは薬物で抑えていたからこその深い表現であり、他方復帰後の、極言すれば八方破れ的ともいえるアグレッシヴな演奏は、むしろ「内面の葛藤」自体を曝け出した「はらわたの音楽」ともいえるように思えます。そういう意味では、まさしくペッパーはコルトレーン・ミュージックを正しく継承していたのかもしれません。

余談ですが、ペッパー、コルトレーンのような「内面曝け出し派」に対し、チャーリー・パーカーやマイルスはどちらかというと「内面→音楽へ転換派」ともいうべきスタンスで、どちらがいいということではありませんが、「日本人好み」という視点では「曝け出し派」が思いのほか好意的に迎えられているようにも思えますね。

ペッパーは話題の自伝が日本に紹介された翌年の82年、惜しくも亡くなってしまいます。死因は脳溢血でした。一概にはいえないでしょうが、奔放な体験の不幸な結果という気がしないではありません。

文/後藤雅洋
ごとう・まさひろ 1947年、東京生まれ。67年に東京・四谷にジャズ喫茶『いーぐる』を開店。店主として店に立ち続ける一方、ジャズ評論家として著作、講演など幅広く活動。

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