
かたや織田信長配下の弓衆・浅野長勝(演・宮川一朗太)。かたや重臣会議の一員として信長に伺候する森可成(演・水橋研二)――。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』劇中の時代からおよそ140年経過した1700年代初頭に、両家の子孫たちは、播州赤穂の地で交差する。
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浅野長勝から6代後の浅野内匠頭長矩の時代に、世に有名な赤穂事件が勃発。江戸城松の廊下で内匠頭長矩が高家筆頭吉良上野介に刃傷、即日切腹の事態に、艱難辛苦の末に大石内蔵助ら赤穂藩の家臣四十七士が、吉良邸に討ち入り、吉良上野介の御首級を挙げます。実は、もうひとつ歴史の面白さがあり、大石内蔵助良雄の高祖父(祖父の祖父)は豊臣秀次の側近だった大石良信で、秀次失脚後に浪人して、紆余曲折の末、浅野家に仕官するという流れになります。
悲劇の森一族
赤穂浅野家は、内匠頭の刃傷によって改易となり、赤穂には永井氏が襲封。その後、1706年に森可成のひ孫にあたる森長直が備中西江原から赤穂に移封してきます。播州赤穂藩といえば、たいがいの人は赤穂事件の浅野家を思い浮かべるかと思いますが、実は、赤穂藩でもっとも長い間藩主を務めたのが、森氏です。
『豊臣兄弟!』には、織田信長(演・小栗旬)の面前に伺候する佐久間信盛(演・菅原大吉)、林秀貞(演・諏訪太朗)、柴田勝家(演・山口馬木也)、森可成、丹羽長秀(演・池田鉄洋)、滝川一益(演・猪塚健太)――からなる重臣会議の場面が度々描かれます。このなかにいる森可成こそ、「戦国悲劇の一族」として知られた森一族の当主になります。『完本 信長全史』(小学館)の「森一族の悲劇」(101ページ)から引用します。
土岐氏から織田氏に転任した森可成は、稲生・浮野・桶狭間合戦などに従い、美濃兼山城主となり、上洛戦後は京都・畿内の民政で活躍していた。一族の悲劇は、元亀元年(1570)に始まる。この年4月、朝倉攻めで手筒山城に一番乗りした可成長男可隆が敵を深追いして討死。同年9月には近江宇佐山城を守備していた可成自身が、朝倉・浅井軍に攻められ戦死する。家督は次男長可が継承。信長の小姓として仕えていた三男成利(蘭丸)・四男長隆・五男長氏は、天正10年(1582)本能寺の変で討死。変後、羽柴秀吉に従った長可も同12年、徳川勢と戦い長久手で戦死。家督は唯一残った六男忠政が継承し、豊臣・徳川の世を生き抜くこととなった。
森蘭丸の弟の家系が大名に
信長に伺候する6人の重臣のひとり森可成は、もともと美濃国主(守護)土岐氏に仕えていましたが、信長の父・信秀の代に織田家に仕えます。
可成には6人の息子がいましたが、信長の「天下獲りの戦い」の中で、嫡男の可隆が討ち死にし、可成自身も戦場に散ります。さらに本能寺の変では、可成の息子たち、蘭丸、坊丸、力丸の3人が信長に殉じ、6人中、4人の兄弟が討ち死にしたことになります。
さらに次男の長可も小牧長久手の戦いで討ち死にし、末子(6男)の忠政のみが生き残ることになります。まさに「悲劇の森一族」です。生き残った森忠政は、川中島藩を経て、津山藩18万6500石を得ます。大坂の陣では、戦功を挙げて家康から名刀「愛染国俊(あいぜんくにとし)」を下賜されます。このとき、忠政は討ち死にした「父と兄弟」にどのような思いを抱いたのでしょうか。
以降、森家は代を重ねますが、森長成の代に悲劇に見舞われます。5代将軍徳川綱吉の有名な悪法「生類憐みの令」に関連して、現在のJR中野駅周辺に巨大な「犬屋敷」が建設されることになり、森長成もその普請を命じられたのです。30万坪を越す巨大な犬屋敷(東京ドーム20個分!)の建設には多額の費用がかかり、津山藩の財政を圧迫します。
犬屋敷普請による財政難で心労がたまったのか、森長成は20代で早世し、森家は長成の叔父にあたる衆利(あつとし)が襲封します。衆利は、犬屋敷建設時に奉行として現場を指揮していたと伝えられます。
この中野の犬屋敷を巡って、森家をさらなる悲劇に陥れる一大騒動が勃発します。
藩主襲封のお礼のために江戸に出府する森衆利は旅の途上の桑名で、幕政批判をしたといいます。自ら奉行として建設にかかわった犬屋敷で、犬が切り殺される事件が勃発し、管理責任を問われて、森家の家臣が切腹する事態になったのを「なぜ、切腹しなければならないのか」と、幕政批判ともとれる発言をしたといいます。
その一部始終が桑名藩から幕府に注進され、「藩主乱心の咎」で、津山藩森家は改易の憂き目に遭うのです。
現代の我々から見ればなんとも理不尽な改易ですが、森家にかわって津山藩に移封してきた松平宣富は、家康次男結城秀康の流れを汲む名門でした。
一方、改易となった森家は、藩祖忠政が、父と兄弟5人が討ち死にした家の出身であること、大坂の陣で戦功をあげて家康から名刀を下賜された名門一族であることを考慮されてか、浅野家が治めていた赤穂に新たな領地が宛がわれます。石高は2万石。浅野家の5万3500石の半分以下でした。
浅野家が「赤穂事件」が勃発するまで治めた赤穂の地は、浅野家同様に織田信長ゆかりの森家に治められることになったのです。以降、森家は赤穂の地で大名として明治維新を迎えます。
いまも赤穂にある花岳寺は、赤穂藩時代の浅野家と森家の菩提寺です。赤穂義士の墓地もあるなど、さまざまな歴史が交錯する寺院です。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり











