はじめに-大沢次郎左衛門とはどのような人物だったのか
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する大沢次郎左衛門(おおさわ・じろうざえもん、演:松尾諭)は、戦国時代の美濃国で活躍した武将です。身長2メートルを超える偉丈夫として伝えられ、「34人力」ともうたわれた剛の者でした。
斎藤義龍(演:DAIGO)・龍興(演:濱田龍臣)父子に仕えたのち、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉、演:池松壮亮)に仕えるという波乱の生涯を送ります。伝説的な逸話とともに名を残す、知られざる戦国武将の一人です。
『豊臣兄弟!』では、つぶて打ちの名人として敵勢に恐れられる存在として描かれます。

大沢次郎左衛門が生きた時代
大沢次郎左衛門が生きたのは、戦国時代後期のことです。美濃国(現在の岐阜県南部)では、斎藤道三が「国盗り」と呼ばれるクーデターを成功させ、戦国大名として勢力を拡大。
その子・義龍、さらに孫の龍興へと家督が継がれていきました。しかし、織田信長の台頭により、斎藤家は衰退。やがて美濃は信長の支配下に入り、さらに天下統一へと向かう流れの中で、豊臣秀吉が頭角を現していきます。
大沢次郎左衛門の生涯と主な出来事
大沢次郎左衛門の生没年は不詳です。少ない資料からその生涯を、紐解いていきましょう。
斎藤義龍・龍興に仕える
大沢次郎左衛門は、美濃の宇留摩(うるま)城(鵜沼《うぬま》城、志水山霧《しみずやまきり》ヶ城ともいう、現在の各務原市鵜沼南町)の城主で、斎藤道三の子・義龍、そしてその子・龍興に仕えていました。
織田信長の美濃攻めと城の明け渡し
永禄5年(1562)、織田信長が美濃攻略のために動き出したとき、その背後を押さえるために狙ったのがこの宇留摩城と猿啄(さるばみ)城(現在の加茂郡坂祝町)でした。
『美濃雑事紀』によれば、城主や子らは討死したと記録されています。一方、『濃陽諸士伝記』や『豊臣記』では永禄9年(1566)に木下藤吉郎の調略によって大沢氏が城を明け渡したという伝承も残っています。
さらに落城の際、倉庫が焼け落ち、炭化した米が出土しました。この米はのちに病の治療薬になったとも伝えられています。

豊臣秀吉の家臣へ
信長の勢力が拡大する中で、次郎左衛門は藤吉郎の家臣となります。しかし、次郎左衛門の存在は、やがて信長の警戒を招くことに。その武勇と大柄な体格が、かえって信長に「変心(裏切り)」の不安を抱かせたのかもしれません。
この危機に際し、秀吉がとりなしたことで、次郎左衛門は美濃へと戻り、命を長らえたといわれています。
こうした逸話からは、秀吉と次郎左衛門の間に一定の信頼関係が築かれていたこと、そして信長の組織内における緊張感の強さもうかがえます。
「34人力」と伝説の巨躯
江戸時代に編纂された『本朝武功正伝』には、次郎左衛門の身長が「2m20cm」で「34人力」と記されており、その規格外の体格と怪力ぶりが語り継がれています。
後世の脚色があるにせよ、当時の人々の記憶に残るほどの強烈な人物像を持っていたことの証ともいえるでしょう。
まとめ
大沢次郎左衛門は、伝説的な怪力と体格も相まって、後世の人々に強い印象を与えたことでしょう。宇留摩城主としての姿や秀吉との関係を知ることで、戦国時代の地域武将たちの生き様と葛藤が見えてくるようです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











