文/後藤雅洋
■変な声? ずれた音程?
ジャズ発生の歴史的経緯や声の質感の問題から、どうしてもジャズ・ヴォーカルは黒人のほうが有利な音楽ジャンルであると話してきました。では、白人歌手のトップに君臨する女性ジャズ・ヴォーカリストは、いったい誰でしょうか。私は、今回紹介するアニタ・オデイこそが、白人女性ヴォーカリスト、ナンバー・ワンの実力派だと思います。
一般に「実力派」といわれる人たちは必ずしも知名度が高いとは限らないものですが、アニタも同じです。いろいろな人気投票などでも、第17号に登場するヘレン・メリルや、第25号で紹介するジュリー・ロンドンのほうが、白人女性ヴォーカリストとしては人気上位にランキングされているようです。
これは、ビリー・ホリデイがポピュラーな人気では、エラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンに一歩を譲った事情に似ていますね。私自身、ジャズを聴き始めたころはホリデイの良さがよくわかりませんでした。同じように、私が最初に好きになった白人女性ヴォーカリストは、ご多分にもれずヘレン・メリルだったのです。そしてアニタに対しては「なんだか変な歌い方をする歌手だな」といった、どちらかというとネガティヴなイメージしかもてなかったのです。
しかし、たまたまジャズ喫茶をやっていたため、コアなヴォーカル・ファンのリクエストがアニタに集中するということもあって、いやでもアニタのアルバムは耳にしていたのです。そうしたこともあって、アニタ・ファンであるヴォーカル・マニアの友人に、いろいろと疑問点を尋ねてみました。
疑問点その1、「アニタって、ちょっと音程がおかしくない?」。マニアの回答。「あれは音程を外しているように聴こえるけれど、ちゃんとコントロールされているんだよ。つまり聴き手に意外性・スリルを与えるテクニックの一種」。疑問の2、「声が変じゃない?」。答え「好みの問題もあるけれど、アニタはビリー・ホリデイに憧れて意図的にハスキー・ヴォイスにしているといわれているんだよ」。
なるほどと思いました。だからといってすぐにアニタが好きになったわけではありませんが、彼の言ったことを念頭に置いてアニタを聴くと、少しずつですがアニタに対する印象が変わってきたのです。
ここでちょっと話が脇道に逸れますが、一部の音楽ファンの間で「評論家無用論」が囁かれています。そうした方々の言い分は「音楽は好きに聴けばいい」という、それなりに筋の通った考え方です。かくいう私自身、ジャズ聴き始めのころはあまりジャズ評論などは読みませんでした。
しかし、アニタ・ファンの友人の助言を念頭に置いて彼女のアルバムを聴くと、同じ歌が少しずつ少しずつ違って聴こえるようになるのですね。これは不思議な体験でした。
変化の順序は、違和感が「耳慣れ」の感覚に。そして「慣れ」がしだいに心地よさに繫がっていくのです。そして知らぬ間に、アニタの「変な部分」がそのまま「魅力」に転換するという不思議体験なのでした。思いきり俗な言い方をすれば、恋愛で「あばたもえくぼ」となるようなことなのかもしれませんが、ともあれ「好き」になったのですから、これは良いことではないでしょうか。
冗談半分に「たとえ話」を続ければ、恋愛では「あばたもえくぼ」といった調子で「彼女」なり「彼氏」が次次と増えていってしまっては問題ですが、音楽ではなんの差し支えもありません(笑)。
付け加えれば、じつはもともと「えくぼ」だったものが、こちら側の見方が悪くて「あばた」に見えていた、ということだって充分に考えられるのです。そうですよね、アニタの歌唱が「あばた」のわけがありません。つまり、そのころの私にとって「評論家」の役割を果たしてくれたアニタ・ファンの友人は、ちょっとした助言で私の眼を啓かせてくれたのです。それ以来私は、「言葉」によって「聴こえ方」が変わるということ、つまり評論の有効性を身をもって実感したのでした。
■“トリッキー唱法”炸裂!
前置きが長くなりましたが、アニタの魅力をもう少し具体的に説明してみましょう。
まずは圧倒的なリズム感の良さでしょう。ジャズという音楽の特徴を挙げるとき、最初にいわれるのが「リズムの音楽」ということです。ジャズ・ヴォーカルに当てはめてみると、ごく普通のポピュラー・ソングでも、リズミカルに歌うとそれなりにジャズっぽく聴こえてくるものです。もちろん、こんなときの「リズミカル」は、せいぜいシンコペーションを効かせるぐらいのことですが、アニタほどのクラスになるととてもそんなレベルではありません。「ドライヴ感」がかかってくるのです。
テニスや卓球でボールに前進方向の回転をかけて返球すると、ボールは地面や卓球台に落ちたあと、思わぬ勢いで相手側に突進していきます。こうしたテクニックを「ドライヴをかける」といいますが、音楽でも演奏が前へ前へと小気味よく進んでいくような感覚を「ドライヴ感」といいます。アニタはこれが大得意。ですから彼女の歌を聴いていると、嫌でも身体が弾んでくるのです。まさにジャズ・ヴォーカルです。
そして彼女のもうひとつの得意技に、「トリッキー唱法」と私が名付けたハイ・テクニックがあります。
サーカスの綱渡りで、わざとロープを揺さぶって落ちそうな素振りを見せ、一瞬観客をハッとさせ立ち直る、などという場面に子供のころほんとうにドキドキさせられたものです。大人になるにつれ、こうしたショック・シーンはすべて演出であることがわかるようになってからも、やはりハッとさせられることに変わりはありません。
アニタは歌でこれをやるのです。わざとリズムや音程を外したような不安定な素振りを見せ、ただちに狙った音に立ち戻る。聴き手は一瞬どうなることかと身構えますが、アニタは何事もなかったように小気味よくメロディを歌わせていくのです。これは気持ちいい。歌唱が平坦に続いていくのではなく、要所要所にあたかも綱渡りのロープから落ちそうになるスリルを挟み込んでいくのです。
言うまでもありませんが、こういう高度な技はサーカス芸人が絶対にロープから落ちない手練の技のように、どんなに音程やリズムを揺さぶっても的確に狙ったリズム、音程に復帰できるだけの圧倒的な歌唱テクニックがあるからこそできるのです。リズムとスリル、まさしくジャズの魅力の集大成じゃないですか。要するにアニタはきわめて「ジャズっぽい歌手」なのです。
■ジャズ度数は最高濃度
ところで以前、ジャズ・ヴォーカルとは何かという説明で、ジャズより歴史も幅も広い音楽ジャンルである「歌」が、20世紀になって「ジャズ」と出会い、歌にジャズ的要素が流れ込み、その「ジャズ度数」が一定値を超えたものを「ジャズ・ヴォーカル」と呼ぶようになった、と言いました。この説明でもおわかりかと思いますが、一般に「ジャズ・ヴォーカル」と呼ばれているものも、その中身のジャズ度数は、ノン・アルコール・ビールにもたとえられるポップスから、それこそアルコール60度にも達しようというウォッカのような「純ジャズ歌唱」まで千差万別です。
さしずめアニタはウォッカ・ヴォーカルですね。そういえば、アニタはビリー・ホリデイに憧れ、白人特有のマイルド・ヴォイスをウォッカをガブ飲みすることでハスキーに鍛え上げた、などという「伝説」が囁かれていますね。
ここまでの説明は、比較的具体的なアニタのヴォーカルの持ち味でしたが、じつをいうと彼女の真骨頂は、こうした「歌唱上の特徴」によって表現された独特の境地なのです。それをひとことで言い表すと「洒脱な都会性」とでもなるでしょうか。
ジャズはもともとブルースやゴスペルなどとは違い「都会の音楽」でした。ジャズ発祥の地ニューオルリンズも昔から賑わった港湾都市。そのジャズがミシシッピ川を遡って辿りついたシカゴもまた、北部の重要な工業都市です。そしてシカゴ経由でジャズが最後に行き着く大都市が言うまでもなくアメリカ最大の都市ニューヨークです。ジャズはここで独自の発展を遂げていったのでした。ですから、ジャズと都会性は切っても切り離せないのです。
アニタはそうしたジャズの特徴をもっともよく表している歌手なのです。そして「洒脱さ」です。しかしこの言葉の説明は難しいですね。というのも私自身があまり洒脱な人間ではなく、ただ憧れているからなのですが、そうも言っていられません。なんとか言葉を重ねてみましょう。
まずイメージでいえば、カクテル・グラスを片手に持ち、ピアノにもたれかかって歌っても絵になること。これって、できそうでなかなか難しいものです。失礼を承知で言えば、大歌手エラでもちょっと……ではないでしょうか。要するにこれは「お洒落さ」と言い換えることもできるでしょう。男性歌手でいえば、フランク・シナトラの役柄ですね。
しかし「洒脱さ」は「お洒落」というだけではないようです。たんにカッコいいとか見栄えがするだけではなく、そこに一抹の香辛料、胡椒・わさびの類の味わいが感じられなければいけません。言い換えれば「気の効いた皮肉」といいましょうか、一種「諧謔」の精神が感じられなければいけないのですね。アニタのハスキー・ヴォイスに乗った「リズム外し」や「音程外し」はまさにヴォーカルにおける香辛料なのです。私はこのあたりに気がついたころから熱狂的なアニタ・ファンとなったのでした。
■手術ミスが変えた声
本名アニタ・ベル・コルトンは1919年(大正8年)にアメリカ北部の大都市、イリノイ州シカゴに生まれました。なぜなのかはわかりませんが、ビリー・ホリデイはじめ名を成した女性ジャズ・ヴォーカリストの多くが、複雑な家庭環境で育っているようです。
アニタの母親もアニタの生後まもなく父親と別れています。アニタは女親の手ひとつで育てられましたが、母はアニタには無関心。アニタは7歳のとき受けた扁桃腺の手術の際、どうしたことかいわゆる「のどちんこ」を誤って切られてしまい、歌手にとって命ともいうべき声を長く伸ばすことができなくなり、また、ヴィブラートもかけられなくなってしまいます。
しかしアニタは後年このハンディキャップを逆手にとって、アニタならではの個性的歌唱法を編み出しました。それは声を断続的に切って旋律を表現する、まさにトリッキーな歌唱スタイルだったのです。
その後アニタは教会で歌と出会いますが、必ずしもすぐにプロ歌手を目指したわけではないようです。
彼女の経歴でちょっと不思議なのは、14歳のときに「ウォーカソン」とい運動に熱中していることです。「ウォーカソン」とはウォーキングとマラソンの合成語で、要するに長距離をひたすら歩き抜くイヴェント。なんとアニタはそのプロ競技者になって親元を離れ、2年近くも遠隔の地を渡り歩いているのですね。そして時には97日間も歩き通すという、まるでヨガ行者のような生活を送っていたのでした。若き日のアニタはジャズ・ヴォーカリストには珍しく、意外と体育会系だったようです。
そしてこのころ、アニタは姓を「オデイ」に変えています。「オデイ」とは、彼女が切に望んだものであった「お金」を意味するスペイン語のスラングだそうです。当時の彼女の生活環境が透けて見えるような逸話ですね。しかし小遣い稼ぎに歌を歌ったりダンスをしたりの放浪生活も、保護司に捕まり親元に強制送還。昼間は学校に通い、夜ともなるとシカゴのクラブで歌うという生活が始まります。
■N・グランツとの出会い
そして1941年、白人の人気ドラマー、ジーン・クルーパ楽団に雇われ、バンド歌手としてプロ・デビュー。2年ほど在籍し、多くのヒット曲で注目を集めます。その後アニタは西海岸を拠点に活動するスタン・ケントン楽団に移り、ミリオン・セラーを叩き出します。45年にはジャズ専門誌『ダウンビート』が、アニタをベスト女性バンド・ヴォーカリストに選出。そしてジャズに力を入れていた男性誌『エスクァイア』では22名のジャズ批評家が彼女に最優秀新人賞を与えたのです。
この年、アニタはあまり自分の歌唱スタイルに合っていないケントン楽団を辞め、ドラマーだけにリズミカルなジーン・クルーパ楽団に復帰します。しかしアニタは1年も経ずして独立し、ソロ・シンガーの道を歩み出しました。しかしこの間アニタはマリファナ事件で逮捕され、実刑判決を受けています。この悪癖はのちにヘロインにまで発展し、彼女の身体を蝕みます。
しかしアニタはレコーディングには恵まれていました。のちにヴァーヴ・レコードを興す名プロデューサー、ノーマン・グランツのもとで50年代から次々と名盤を録音し、彼女の絶頂期の記録はほとんどこのレーベルに網羅されているのです。今号CDに収録した音源はすべてこのヴァーヴ・レーベルからです。
そして58年、ジャズ映画の傑作として知られた『真夏の夜のジャズ』で、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルでの名唱を披露しています。折があればぜひご覧いただきたい映像です。63年には初来日しており、その後も数多く来日しています。60年代は前述したヘロイン中毒で苦しみましたが70年カムバック。2006年に87歳の生涯を閉じました。
文/後藤雅洋(ごとう・まさひろ)
日本におけるジャズ評論の第一人者。1947年東京生まれ。慶應義塾大学在学中に東京・四谷にジャズ喫茶『い~ぐる』を開店。店主としてジャズの楽しみ方を広める一方、ジャズ評論家として講演や執筆と幅広く活躍。ジャズ・マニアのみならず多くの音楽ファンから圧倒的な支持を得ている。著者に『一生モノのジャズ名盤500』、『厳選500ジャズ喫茶の名盤』(ともに小学館)『ジャズ完全入門』(宝島社)ほか多数。
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