天下三分を生んだ決断

孫策没して8年後、天下統一をもくろむ曹操が南下を開始する。兵をもってこれに抗するか降るかで、呉の国論は割れた。周瑜はみずから見出してむかえた謀臣・魯粛と歩調をあわせ主戦論を展開、孫権に開戦を決意させる。亡き孫策とともに築いた国をくだらせてなるものかという思いもあったろうが、感傷で動いたはずもない。周瑜はこのとき、80万と号される曹軍が実質20万前後であることを的確に見抜いている。対する呉軍は3万と、不利ないくさであるのはたしかだが、敵が慣れぬ水上戦を強いられること、はじめての土地で病気がひろまる可能性もあることなどを挙げ、味方の優位を説いた。じっさいその通りはこんだわけであるから、慧眼というほかない。彼にはたしかな勝算があったのだろう。

実はもうひとり、主戦論を説いた人物がいた。ほかならぬ諸葛孔明である。劉備の使者として孫権をたずね、対曹操の同盟をもとめたのだった。が、ここで呉が降れば劉備軍が生きのこる道はない。孔明としては主戦論を説くしかないわけで、孫権にもその程度のことは分かっていたはずである。もし周瑜が降伏側にまわっていたら、日ごろの信頼からして容れていた可能性がたかい。となれば、魏・呉・蜀の三国分立もありえなかった。公平に見て、周瑜の説得こそが歴史を動かしたといっていい。

赤壁の戦いで劉備・孫権の連合軍が曹操に大勝したのは周知のとおり(第2回参照)。最大の勝因となった火攻めは、呉将・黄蓋の策をうけて周瑜が決断したものである。「演義」では、孔明の智謀をおそれて亡き者にしようと画策するが、むろん正史にそのような記述はない。彼ほどの武将が決戦まえに内輪もめをおこすわけもないし、そもそもふたりのあいだに具体的な遣りとりがあったという痕跡すらうかがえない。おそらく孔明とは、同盟をむすぶ折に接触した程度ではないか。小説的技法とはいえ、天才軍師の引き立て役を割り振られてしまったのは気の毒というほかない。

赤壁の2年後、周瑜は36歳の若さで病没する。呉にはおおきな痛手だが、魯粛をはじめとする賢臣・勇将が孫権をささえた。ついには三国の一角をしめるにいたるが、晩年の孫権に失政が目立ったのも事実である。周瑜が生きていればと思った人は、当時も決して少なくなかったろう。あるいは孫権自身、そう考えたことがあるかもしれない。彼は帝位についた折、「周瑜がいなければ、わしはこの座を得られなかった」ということばを残している。すでに周瑜が没して20年ちかくがたっていた。臣下として受けうる最高の賛辞というべきだろう。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

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