文/砂原浩太朗(小説家)

姜維(きょうい)~諸葛孔明を継ぐ者【中国歴史夜話7】

西暦234年、宿敵・魏を討つべく軍をすすめた蜀の丞相(じょうしょう。宰相)・諸葛孔明は、五丈原の陣中で死のときを迎えていた。このとき、彼はひとりの将にみずから著した24篇の書物をゆずる。孔明の魂ともいうべきこれらの書を託された者こそ、姜維(きょうい。202~264)だった。

若き天才の虚と実

姜維は天水郡(甘粛省)の出身。蜀の初代皇帝・劉備より41歳、孔明よりは21歳年下だから、三国志の第三世代といえる。天水郡は魏の領土であり、姜維も父の代からその禄をいただく身だった。

西暦227年、孔明は名高い「出師(すいし)の表」を2代皇帝・劉禅にたてまつり、魏討伐の兵をおこす。蜀軍が天水にせまったのは、その翌年。小説「三国志演義」には、孔明のしかけた策を姜維が見抜き、名将・趙雲を追いつめるくだりがある。この部分は創作だが、孔明がいちど敗北するという展開は姜維の天才を強調せずにおかない。ストーリーのなかで、いかに彼が重視されているかよく分かるだろう。

つづいて「演義」では、姜維の才に惚れこんだ孔明が、彼が蜀へくだったという流言をひろめ天水の太守・馬遵(ばじゅん)の疑心をあおる。姜維はこの術中にはまった馬遵から追われる身となり、行き場をなくしたところへ孔明が手をさしのべる。27歳の若き才能が蜀軍にくわわった。

姜維が太守からうたがわれ、進退きわまって蜀へくだったのは事実である。とはいえ、このあたりの経緯にはあいまいなところが多く、正史には、二心をうたがい姜維を城に入れなかったとあるだけ。言うまでもなく、ここでは複数の解釈が成りたつ。「(孔明の計略があったかは別として)太守が疑心にかられ無実の姜維を放逐した」「じつは、ほんとうに内通していた」のふたつである。筆者個人は、どちらかといえば太守の疑心暗鬼説に傾いているが、その後の厚遇を見ると内通説にも捨てがたい重みがあるといえる。

ちなみに、「演義」では姜維を孝行の鑑として描いているが、正史の注には、彼が武人としての功業を追うあまり、母の待つ故郷へなかなか帰ろうとしなかったというエピソードが記されている。この設定は物語作者のフォローだったのかもしれない。

はばたけぬ武人

本稿冒頭の書物をゆずられる話は「演義」によるもので、史実として確認されてはいない。が、孔明に24篇の著作があったことは正史に明記されており、姜維の才能を絶賛する彼の書簡も引用されている。そうしたことがあっても不思議とはおもえぬ肩入れぶりといえよう。

孔明の死後、姜維は大将軍にまでのぼりつめ、蜀の軍事をになう身となる。異民族を味方につけ、魏の背後をおびやかそうとするなど積極的な外征策を打ち出した。いっぽう、内政を受けもつ費い(「い」はしめす偏に「韋」)は自重派で、「孔明どのでさえ天下を平定できなかったのだから、われらはつつしんで国をたもつべきである」というのが持論。これはこれで傾聴されるべき見識だし、正史でも費いの評価は高い。が、姜維が制約をうけ、歯がゆい思いを味わったのは確かだろう。

げんに、彼が活発な軍事行動をはじめるのは、253年に費いが死んだ後である。はやくもその年のうちに軍をおこし、以後、毎年のように魏とのいくさを繰りかえした。戦況は一進一退というところで、たとえば255年には数万の敵を屠る大勝をおさめたが、翌年にはみずから降格を申し出るほどの敗北に見舞われている。とはいえ、孔明にも魏をほろぼすことはできなかった。兵力の差(すくなくとも5倍ほどの開きがあったとされる)を考えれば、善戦といってよいのではなかろうか。

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