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文/砂原浩太朗(小説家)

趙雲~「全身これ胆」の名将【中国歴史夜話 12】

蜀の武将・趙雲(ちょううん。?~229)は、三国志のなかでも独特な存在だと感じる。朋輩である関羽や張飛と遜色ない活躍をしめすものの、さほど個性のつよい人物として描かれてはいない。いわば、あくまでナンバー3の位置にとどまっているのだ。が、それでいて、他の将をしのぐ存在感と評価を得てもいる。「全身これ胆」とまでたたえられた武人の実像は、いかなるものなのか。

長坂の大活躍

趙雲といえば、まっさきに挙がるのが、長坂(ちょうはん。長阪とも。湖北省)での活躍。西暦208年、赤壁の戦いに先立ち曹操軍が南下、いまだ荊州(おもに湖北省および湖南省一帯)の客将にすぎなかった劉備はこれをささえきれず、逃亡した。このとき曹軍に追いつかれ、撃破された場所が長坂である。乱軍のなか妻子さえ打ち捨てるほどの敗北だったが、趙雲が嫡子・劉禅と生母の甘夫人を守り抜いた。小説「三国志演義」では、彼が生後まもない劉禅を抱いて戦場を駆け抜ける場面が読ませどころだが、正史にもはっきり「幼子(劉禅)を抱いて」と記されているから驚く。劉備から、「趙雲は全身これ胆である」と評されたのも道理というべきだろう。趙雲は後年、呉へ拉致されそうになった劉禅を取りもどすという功績もあげているから、二度にわたって跡継ぎを救ったこととなる。

なお、劉禅の幼名として知られる「阿斗(あと)」は正史に記載がなく、「演義」ないし、それ以前に流布した芝居や講釈で創作されたものと思われる。また、長坂の戦いではほかにも有名な場面が多く、劉備の妻ふたりのうち糜(び)夫人が深傷を負い、足手まといにならぬよう自ら井戸へ身を投げるというのもその一つ。これは創作だが、甘夫人が趙雲のおかげでことなきを得たと正史に明記されているため、くわしい叙述のない糜夫人を使い、劇的なストーリーを創りだしたのだろう。

劉備との出会い、そして再会

趙雲は常山(じょうざん。河北省)の出身。背も高く、人目を惹く容姿の持ち主だったと伝えられる。もと群雄のひとり公孫さん(「さん」は王に贊)の配下だったが、流浪時代の劉備もまた、公孫さんの知遇を得た時期があった。このころ、二人していくさへ出ることもあったというから、そのあいだに親交を深めていったのだろう。やがて劉備は独立し、みずから群雄のひとりとなるが、趙雲がいつ劉軍の一員となったか正確なところは不明。劉備が独立する際に引き抜いた可能性もあるが、正史の註では、西暦200年、曹操にやぶれ、袁紹のもとへ身を寄せた劉備を趙雲が訪ね、召し抱えられたという話を紹介している。この前年に公孫さんが滅んでおり、浪々の身となった趙雲が、劉備との交誼を思い馳せ参じたのである。

ついに趙雲を得たことが心底うれしかったらしく、劉備は彼とひとつ床に眠るほどの親しみを見せた。これは最大級の結びつきをあらわす表現で、関羽や張飛についても用いられている。「演義」では、長坂の乱戦で趙雲がはぐれた折、曹操方へ寝返ったという流言がひろがるが、劉備はいささかも耳を貸そうとしなかった。やはり正史の註に、ほぼこれと同じ話が採られており、趙雲への信頼がこの上なく厚いものだったことがうかがえる。

「プロの武人」として

ながらく流浪の将として乱世をさすらっていた劉備だが、西暦214年にようやく蜀(四川省)を領有、三国の一角をしめるまでになる。このとき、田畑や家屋敷を諸将に分け与えようとしたところ、趙雲が「まず民衆にあたえるべきです。生活を落ち着かせてから、労役や兵役を課すのがよろしいでしょう」と進言した。

これは、二重の意味で感嘆に値する発想と思われる。まずは、おのれの欲にとらわれず、民の暮らしを慮っている点。史書にはこの類の話がよく見うけられるから、読むほうも慣れてしまっているところがあるが、むろんたやすくできることではない。が、さらに重要なのは、民衆を安んじることが結局、国力の増強につながるという視野を持っている点である。個人としての無欲や慈悲それ自体もうつくしいが、将として必要な一段上の思考を趙雲が身につけていることは強調しておきたい。

ただ、彼が個人として無欲な質だったのも事実と感じる。正史の註には、上述のエピソード以外にも、趙雲が美女や褒美を辞退した話が記されている。みずからの感情や欲望をコントロールすることに長けた人物だったのだろう。関羽が呉に討たれ、仇をうつべく劉備が出兵をくわだてた際には、「戦うべきは呉でなく魏です」といって諫めてもいる。趙雲とて、何十年も劉備や関羽・張飛と苦楽をともにした仲であるから、無念の思いは人一倍あったろうが、それでいてこの進言は、みごとというほかない。関羽や張飛には辛い正史の評価も、趙雲には賞賛を惜しんでいない。

ちなみに、蜀を代表する武将として、しばしば「五虎大将」という表現が用いられる。関羽・張飛・馬超・黄忠、そして趙雲の5人である。五虎大将の名は「演義」の創作だが、正史で5人の伝記が一篇としてまとめられていることに想を得たのだろう。趙雲が「虎威(こい)将軍」と呼ばれた史実もヒントになったと思われる。

趙雲は西暦229年に天寿をまっとうしたが、前年まで戦場での活躍をつづけている。有名な「街亭の戦い」で馬謖(ばしょく)が惨敗を喫した折、別動隊をひきい、敗れながらも被害を最小限にとどめて引きあげたのだった。諸葛孔明がその振る舞いを賞し、絹を下賜しようとしたところ、「敗軍の将に、なぜ褒美があるのでしょうか」といって受けとらなかったとされる。勝ちいくさではないものの、最後の花道として、いっそ趙雲らしいというべきだろう。

彼の享年は不明だが、「演義」では、孔明が魏討伐を開始した227年に70歳というくだりがある。もっともこれには根拠がなく、たんに老齢であることが言いたかったのだろう。が、もしこの記述が正しいとすれば、劉備より3つ年上ということになる。終生、激することなく、乱れることなく武の道をまっとうした趙雲であれば、それもありうるような気がしてしまう。彼の生涯を振りかえる際、筆者には「プロの武人」ということばが思い浮かぶのだが、いかがだろうか。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

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