文/砂原浩太朗(小説家)
【前編はこちら】
赤壁の戦い
諸葛亮(字は孔明)が劉備に開陳した天下三分の計とは、次のようなものだった。「曹操はすでに強大で、今すぐ互角に戦える相手ではありません。いっぽう呉(長江下流南部)の孫権は三代にわたって支配をかためており、人材も豊富です。これを味方とすべきでしょう。あなたさまは荊州と益州(蜀。四川省)を手に入れ、天下の変を待って大業を完成させるがよろしゅうございます」
折しも、曹操の南下と時をおなじくして、荊州の牧(長官)・劉表が病死。その子が跡を継いだものの、あっさり曹軍に降伏してしまう。劉備は撤退の道を選ぶが、彼を慕う士人や民衆が大挙して従い、その数は10余万におよんだという。これらの人びとを見捨てるよう進言されても、彼は「大事の基はひとである」といって承知しなかった。小説めいたエピソードながら、これまた正史にはっきりと記されている。徐州をゆずられた件といい、劉備には魔術的とも呼べるほどの魅力がそなわっていたとしか思えない。
だが、やはりこれが行軍速度の遅れを招き、敵方に追いつかれて大敗を喫する。このときの激突が、張飛の活躍で名高い「長坂の戦い」。かろうじて危地を脱した劉備は孫権とむすび、曹操を迎え撃つ。いわずとしれた「赤壁の戦い」であり、「演義」では孔明が火攻めに有利な東南の風を祈るなど大活躍を見せるが、この勝利は、おもに呉の周瑜がもたらしたもの(第2回(https://serai.jp/hobby/373546)参照)。劉備軍は一方の抑えというところで、戦後の混乱に乗じて荊州を手に入れた。ついに天下三分への足がかりができたことになる。
蜀を得る
赤壁の戦いから3年後、息を吹きかえした曹操は漢中(陝西省)攻めの計画を立てる。この地に境を接する蜀の劉璋は、同族とされる劉備を迎え入れ、曹操に対抗しようと考えた。が、家臣のなかに劉備をあるじに戴きたいと考える一派があり、使者に立ったのをさいわい、国内の情報を細大漏らさず伝えてしまう。
というのが正史の記述だが、この日を見越して以前から劉備陣営が人脈を築いていた可能性もあるだろう。天下三分の計では蜀を得ることが前提になっているのだから、好機が到来するのをただ待っていたというのもおかしな話である。孔明あたりが内通者をつのっていたとしても不思議はない。
前述のように、劉備軍は相手方の情報に精通していたから、これを招き入れた時点で大勢は定まっていたといっていい。ときに苦戦を強いられることもあったが、3年に渡る攻防の後、劉備は蜀を制圧する(214)。ここに三国鼎立のかたちが完成したのだった。ただし、じっさい劉備が帝位に就くのはこの7年後、死のわずか2年まえである。
侠客として死す
劉備の躍進は曹操のみならず、同盟者の孫権にとっても脅威となった。荊州の領有を主張し、半分は割譲されたものの、劉備が漢中を手に入れる(219)におよび、曹操と手を結ぶ。劉備の腹心・関羽を討ち、荊州全土を手に入れたのだった。
荊州を失うことは、天下三分の計の前提が崩れることでもある。蜀にとっては大きな痛手だったが、戦略的なことよりも、挙兵以来、苦楽をともにした関羽の死が劉備の目を曇らせてしまう。孔明はじめ群臣の反対を抑え、呉の討伐に踏み出したのだった。この出陣に際しては、いまひとりの股肱・張飛が部下の怨みを買い、寝首を掻かれるという悲劇まで起こっている。
劉備は完全に冷静さを欠いていたのだろう。夷陵(湖北省)の戦いでは拙劣な戦略を取り、呉の名将・陸遜に大敗する。一命はひろったものの、都へもどることはなかった。白帝城(四川省)にとどまったまま病をつのらせ、翌223年、息を引き取る。63歳だった。
関羽をうしなって以来の振る舞いは一国の君主とも思えぬものだが、ひとりの侠客と考えれば、腑に落ちなくもない。清水次郎長と森の石松を思い浮かべてもいいが、一家の者が殺されれば、仇を討たぬわけにはいかないのである。ついに都へ戻らなかったのも、臣下の反対を押し切っておきながらの敗戦に面目が立たぬと感じたのだろう。つまるところ、「侠」こそが、彼の本質だったのではないか。
劉備は死に際して孔明を呼び寄せ、名高い遺言をのこしている。「もし、わが子(劉禅)が補佐するに値しない人物であれば、あなたが帝位につきなさい」と。君臣関係の模範として、ながく語り継がれることになる遺言だが、筆者はここにも彼の侠客的性質を感じる。むろん、わが子を守り立ててほしいという気もちはあったに違いないが、蜀という国を「劉備一家」という男伊達集団ととらえれば、声望ある家臣ないし子分にゆずるという決断はありうることだろう。
歴史上の劉備は、とらえどころのない人物と考えられてきた。たしかに、数多の武将たちとは随所でことなった行動を見せることが多い。伝説めくほどの人望も、なにやらリアリティを感じにくいとさえ思える。昨今、とくに曹操や孔明に人気が集まるのも宜なるかなというところである。
だが、「侠客」という補助線を引くと、彼の生涯がはっきりした一貫性をもって見えてくるのも事実。「君主」でなく「親分」と考えれば、分かりにくいとされてきたその生涯は、むしろ痛快とさえ言えるだろう。むろんひとつの解釈に過ぎないが、筆者の胸には男伊達としての劉備がはっきりと息づいている。
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。
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