文/砂原浩太朗(小説家)
中国の歴史をひもとく際、われわれ日本人にとってつかみにくいのが「宦官(かんがん)」と呼ばれる存在だろう。ひとことでいえば「去勢された側仕え」ということになるが、わが国に例のない制度でありながら、中国史を語るうえでは無視することのできない要素でもある。現代の感覚からすれば異形とも思える「宦官」とは、いったいどのような人々なのか。
3000年以上昔からいた宦官
宦官は中国のみの風習というわけではない。エジプト、ギリシャ、ローマといった地中海世界、トルコや朝鮮にも見られたが、なかでも中国では、しばしば国政を揺るがすほどの大きな存在となった。
最古の例は紀元前14世紀。異民族の捕虜を宦官とすることについて、殷(いん)の王が神意をうかがった文献(いわゆる甲骨文字)が残っている。これは宦官に関する世界最古の記録でもあり、最後の王朝である清(1616~1912)の滅亡にいたるまで、彼らは3000年以上にわたって王や皇帝の側近く仕えつづけたことになる。
こうした一団がもとめられたのは、むろん後宮の女性たちとあやまちを犯さぬ側近が必要だったからだが、清朝史の研究家・三田村泰助は、著書『宦官』のなかで注目すべき見解を述べている。もともと王は神の代弁者とされていたため、一般の人間に生身の部分を見せるのは具合がわるい。そのため、側仕えに「人ならざるもの」としての宦官がもとめられたというのだ。傾聴に値する説というべきだろう。同書は宦官について日本語で書かれた書物の先駆けであり、関心のある方には一読をおすすめしたい。本稿もこの書に多くを負っている。
宦官の肉体的特徴とは
宦官に施された去勢手術は、もともと「宮刑」と呼ばれたことから分かるように、刑罰としておこなわれたもの。が、古来、皇帝の側ちかく侍ることで権勢を手にした宦官が多く、みずから志願して手術を受ける者も跡を絶たなかった。清代後期の北京では、紫禁城(宮廷)のすぐそばで数人の専門家が手術をおこなっていた記録がある。切り取られた男根は保存され、宦官本人が生を終えたときはともに埋葬されたという。
去勢された者の特徴として、まず声が高くなることが挙げられる。子どものときに手術を受けたものは女性の声にひとしく、成人してから宦官となった場合は、いささか不自然な裏声になった。髭が生えていた者は数か月のうちに抜け、つるりとした顔になる。また齢をとると肉が落ち、極端に皺の寄った外見になった。
清代の19世紀後半には2000人の宦官が宮中に仕えていたという。この数を多いと感じる方もおられるだろうが、前代の王朝たる明で10万人とされていたのを、名君として知られる康熙(こうき)帝(1654~1722)が大幅に削減したもの。倹約の意図もあるだろうが、明代では宦官の跋扈がはなはだしかったから、これを省みたものと思われる。とはいえ、帝が500人にまで減らしたものが150年ほどのあいだにまた増えているのだから、やはり宦官は中国の宮廷に欠かせぬ存在だったのだろう。
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