文/砂原浩太朗(小説家)
軍師――「軍機をつかさどり謀略をめぐらす人」というのが広辞苑の定義である。誰もがまず思い浮かべるのは、「三国志」の諸葛孔明(181~234)だろう。ほかには、漢の初代皇帝・劉邦につかえた張良(?~前168)を挙げる人が多いかもしれない。脚色されているとは承知していても、神のごとき智謀をやどした彼らの活躍には胸がおどる。これら名軍師の源流にいる人物が、周の建国(前1050?)をたすけた太公望(たいこうぼう)である。3000年以上前というはるかな古代、元祖・軍師はいかなる生涯を送ったのか。
賢君・文王との出会い
「太公望」はいわばあだ名であり、本名は呂尚(りょしょう)という。もともとの姓は「姜(きょう)」だが、先祖が呂(河南省)の地に封じられたため、こう呼ぶ。彼が生きたのは紀元前11世紀、「酒池肉林」で知られる暴君・殷(いん)の紂王(ちゅうおう)が統治する世である。
最近は聞かなくなったが、かつて太公望といえば釣り人の代名詞でもあった。前述の先祖は伝説の聖王につかえ、治水に功があったとされるが、彼の代にはすっかり落ちぶれている。愛想をつかした妻から家を追い出され、為すこともなく釣り糸を垂れるだけの毎日だった。そんなとき川のほとりで、周の地(陝西省周辺)をおさめる姫昌(きしょう。のち文王)と出会う。姫昌は天下に令名をはせた賢君で、紂王から叛意をうたがわれ幽閉されたものの、家臣が莫大な貢ぎ物をおくって釈放されたという過去をもつ。呂尚と語り合った彼はその智謀と見識に魅せられたらしく、「わが亡父はかねてから、聖人と出会っておおいに周が興ると告げていた。あなたこそ、太公(父)が望んだ人物だ」といって召しかかえた。これが「太公望」という名の由来である。
「太公望伝説」の検証あれこれ
上記のエピソードはよく知られたものだが、漢代の歴史家・司馬遷(しばせん。前145?~前86?)があらわした「史記」には、太公望と姫昌の出会いについて、さらにふたつの説が記されている。
ひとつは、姫昌の重臣に太公望と面識のある人物がいて、彼を周へ招いたというもの。もうひとつは、殷につかえていた太公望が紂王の暴虐に失望し、姫昌のもとへ身を寄せたとするものである。最後の説はなかなか小説的でおもしろく、もし筆者が太公望を書くならこの想定にもとづいてみたいが、いずれが正しいか今となっては決めようもない。なにしろ太公望が活躍した時代から、司馬遷の時点ですでに1000年近くが経過しているのだ。各地につたわる伝承や歌謡をふくめ、可能なかぎり資料を集めたろうが、もとより厳密は期しがたい。とはいえ司馬遷も釣りの話を通説として紹介しているから、当時すでにそのイメージが定着していたと見ていい。
なお、「太公望」の由来についても異説が存在する。清(1616~1912)代の学者がとなえたものだが、「呂望」が彼の本名で、「尚」は字(あざな。通称)だという。「太公」はもともと父祖にたいする一般的な尊称だから、「太公望」は「斉(せい。後述)の始祖である望」の意とするのだ。たしかに、「楚辞(そじ)」(原型は前4~3世紀)や「論衡(ろんこう)」(後1世紀)といった書には「呂望」の名で登場するし、「史記」でもしばしば彼のことを「太公」と記している。姫昌の父が望んだ云々という話が揺るぎないものなら、「太公望」ないし「呂尚」で統一されるべきだろう。司馬遷の参照した資料に、「太公・呂望」の痕跡がのこっていたのかもしれない。筆者もむしろ、この解釈のほうを自然だと感じるが、これまた確かめようのないことである。
近代人・太公望?
太公望の助言を得た姫昌は、自国での善政をこころがける一方、異民族を討ち新たな都を築くなど、殷の転覆にむけて力をたくわえはじめた。紂王の悪逆は多分に脚色されたものと思われるが、統治がゆるんでいたのは事実だろう。有力諸侯である姫昌が天下を視野に入れてもふしぎはない。が、討伐の旗をあげる前に彼の寿命は尽きてしまう。あとを継いだ子の発(はつ。武王)は、弟の旦(たん。いわゆる周公)や太公望を片腕として、ついに征討の兵をおこす。
このとき、占いで凶と出たのを太公望が説得して軍をすすめさせたという。素通りしがちな記述だが、3000年前の古代ということを考えれば、突出した近代的センスといっていい。おそらく太公望は、きわめて合理的な頭脳の持ち主だったのだろう。その彼を受けいれた姫昌・発の父子もやはり英主と呼ぶべきではないか。
太公望のすすめにしたがっていくさを続行した周軍は、牧野(ぼくや。河南省)で紂王を破り、天下を手中にする。功第一とされた太公望は斉(山東省)に封じられ、「諸侯で罪を犯す者あれば、討伐してよい」という大権をあたえられた。また、自国内では君臣の礼を簡略なものとし、商工業の振興に力をそそいだという。筆者はここにも太公望の近代性を感じるのだが、800年ものち、始皇帝ひきいる秦の天下統一戦にさいごまで残った強敵が、この斉であることは特筆しておきたい。その時点で、すでに君主の血統はかわっているが、太公望が大国・斉のいしずえを築いたことは間違いない。
太公望の生没年はいっさい不明だが、「史記」によれば百余歳の天寿をまっとうしたという。その真偽はともかく、理想の賢人像を託されたのだろう。が、筆者はむしろ彼に透徹したリアリストの面影を見る。はるか古代の人間でありながら、まるで隣人のごとく、われわれと近しいものを覚えずにはいられないのである。ここにこそ、元祖・軍師の面目がうかがえるのではなかろうか。
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。