文/砂原浩太朗(小説家)
【前編はこちら】
孔明と兄・諸葛瑾は腹違いだった?
諸葛一族のうち、孔明(181~234)についで知られているのは、まぎれもなく兄の諸葛瑾(きん。174~241)だろう。呉主・孫権(182~252)につかえ、誠実な人柄で絶大な信頼を得た。弟の孔明が蜀につかえているため中傷の声も起こったが、孫権はいっさい耳をかたむけず、かえって、しばしば蜀への使者に立てたほどである。兄弟も公私の別には細心の注意をはらっていたようで、公の任がおわったあとも、私的に会おうとはしなかったという。
諸葛瑾の伝記には「継母につかえ」云々という一節があり、孔明とは腹違いである可能性も考えられる。父の死後、孔明は叔父に引き取られているのだが、瑾は行動をともにしていない。いささか小説的な想像だが、7歳差で母がちがうとすれば、多感な時期にさびしい思いをしたことも多々あるだろう。兄弟でべつの国に仕えたのには、そうした背景があったのかもしれない。とはいえ、孔明は兄の子・喬(きょう。前編参照)を養子にもらってもいるから、肉親としての交流がつづいていたことはたしかである。
才子・諸葛恪の末路
瑾の長子が諸葛恪(かく。203~253)である。おさないころから才気あふれる人物だったらしく、そうしたエピソードがいくつか残っている。ここでは、もっとも有名な話を紹介しよう。
孫権にはやや悪ふざけが過ぎるという欠点があったが、ある日、驢馬を引いてきて、「諸葛子瑜(しゆ)」と札をかけた。子瑜は瑾の字(あざな=通称)で、面長の諸葛瑾を驢馬のようだとからかったわけである。そのとき恪が、くだんの札に二文字を書きくわえた。その文字とは、「之驢」。つまり、父自身ではなく、「諸葛瑾の驢馬」だということにしてしまったのである。孫権はその才を愛でていたようで、臨終に際し後事をたくした5名のなかにも選ばれている。
幼帝・孫亮が即位すると諸葛恪の威勢はさらに増し、攻め寄せた魏軍をおおいに打ち破るなどの功を立てた。ここまではよかったが、勢いづき、みずから興した魏討伐のいくさには大敗。人望をうしなうなか、孫一族の者に暗殺されてしまう。孫権が没した翌年のことであった。才子の没落はあまりにも早かったというしかない。
ちなみに、このとき息子たちも殺害され、一族は絶えた。が、惜しむ声が多かったと見え、蜀へ養子にいった喬(瑾の子で、恪の弟)の子・攀(はん)が呉にもどり、家を継いでいる。諸葛瑾の遺徳というほかない。あるじのみならず、国中から広く信頼をあつめていたのだろう。
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