文/砂原浩太朗(小説家)

現代の西安

わが国では推古天皇にはじまる女帝が何人か存在したし、海外でもエリザベス1世やエカチェリーナ2世など、名高い女性統治者がすぐに思い浮かぶ。が、中国では3000年以上におよぶ歴史のなかで、女帝はたったひとり。それが武則天(ぶそくてん。または則天武后)である。名はご存じの方も多いと思うが、どのような人物かと聞かれれば、答えにつまってしまうのではないだろうか。唯一無二の女傑、その生涯を追う。

見そめられた尼僧

中国史上、屈指の名君といわれる唐の太宗(李世民。598~649)が没して数年後のこと。息子である第3代皇帝・高宗(李治)が、都・長安(現・西安)のさる寺に参拝した。ここで彼は、ひとりの女人を見そめる。父の後宮につかえたものの子をなさなかったため、その死とともに出家し、この寺に暮らしていた尼僧だった。彼女こそ本稿の主人公・武照(ぶしょう)、のち武則天と呼ばれる人物である。たちまち魅せられた高宗は、武照を還俗させ、みずからの後宮へ迎え入れる。

というのが表向きのストーリーだが、くだんの寺は名刹というわけでもなく、ときの皇帝がわざわざ訪れるのも不自然。太宗の生前からふたりに何らかのつながりがあったとする見方が主流である。皇太子時代、高宗は父が起居する寝殿のすぐそばに住まいを与えられていたから、後宮の女性を目にとめる機会は多かったと思われる。肉体的なものかどうかはともかく、交流が生まれたとしてもふしぎはない。当時の慣習で出家させられた武照に、いずれ寺から呼び戻してやるという約束を与えていたのではなかろうか。

商人の娘から皇后へ

武照の父はもと材木商だったが、隋末の動乱期に太宗やその父と知り合い、刺史(州の長官)にまで取り立てられていた。その縁で彼女も後宮に入り、武媚(ぶび)という名を与えられたが、位はひくく太宗にさほどの寵を受けた形跡もない。数多いる女人のひとりにすぎなかったのだろう。が、高宗はよほど惚れこんでいたらしい。王皇后ふくめ何人もの女がそばにあり、すでに子もなしていたが、還俗させた武照への寵愛は深まる一方だった。

そんな折、彼女が生んだばかりの女児が突然の死を遂げる。それも、王皇后が訪問した直後というタイミングだった。当然、嫉妬にかられた皇后が赤ん坊を殺したという風聞が立つ。が、じつは武照本人がわが子を殺し、皇后が疑われるよう仕向けたのだという。

これはれっきとした史書に記されている話だが、にわかには信じがたい気もする。中国では女性の権力者を好まぬ風潮が濃く、唐朝を中断させた(後述)武照への風当たりは強かった。史家たちのなかにも彼女をおとしめようという気もちがあったことは確かである。史実の誇張ないし歪曲もありうるが、 武照にかけられた疑惑を打ち消すための材料は残されていない。ここでは、そういう説が流布していると記すにとどめたい。

ただ、彼女がわが子の死をたくみに利用し、皇后を追い詰めようとしたことは事実。高宗も風聞を信じ、王氏を廃して武照を皇后に据えようと考えた。重臣たちはこぞって反対したものの、最終的には高宗が決断、ついに武照は皇后の位を手に入れる。これは655年のことであり、後宮に返り咲いて3年ほどしか経っていない。彼女の生年にはいくつか説があるが、本稿ではもっとも有力とされる628年説を採る。それに基づけば、このとき彼女は28歳。ふつうなら、これが女性としての最高位となるが、武照の物語はまだまだつづいてゆくのである。

水戸黄門との意外なつながり

皇后となった武照はみずからの地位を確実にかためようとする。わが子を皇太子としたのはもちろん、反対派をつぎつぎ都から離れた地へ追いやり、廃位された前皇后や他の愛妾に死をたまわった。ちなみに、このとき左遷されたなかに、書家としても知られるちょ遂良(ちょすいりょう。「ちょ」は衣偏に「者」)がいる。

高宗は病気がちで政治にも熱心ではなかったため、数年のうちには彼女が実質的な政務をになうようになっていく。この間、朝鮮半島へも遠征をおこない、663年には、白村江(わが国でいう「はくすきのえ」)で百済と倭国の連合軍をやぶっている。また、その5年後には太宗以来の悲願である高句麗討伐を成し遂げた。唐の勢威は絶頂に達したといっていい。むろん、武照ひとりの功績であるはずはないが、最高権力者としてこの時代を現出せしめたのがただの偶然であるわけもないだろう。事実、政治家としての武照を評価する声も根強い。

彼女は、なみはずれて文字や言葉に関心を持つたちであったらしく、役所の改称や改元をいくどもおこなった。とくに改元は頻繁で、生涯のうち30回にも達している。言葉へのこだわりはおのれの称号にもおよび、高宗のことは「天皇」(てんこう)、みずからを「天后」とした。また、のち皇帝となるに先んじ、あたらしい文字を制定している。これらは「則天文字」と呼ばれ、水戸黄門として有名な徳川光圀の「圀」もその一つ。同時代人はなにかとわずらわしかっただろうが、言葉をあつかう者のひとりとして、この偏執ぶりには親しみを禁じ得ないということも書き留めておきたい。

ついに女帝となる

683年、ながらく連れ添った高宗が世を去る。皇太子が帝位をつぎ(中宗)、武照は皇太后となった。ところが、中宗は政治の権をにぎろうとする姿勢を見せたため、はやくも翌年には廃され、弟が即位する(睿宗)。皇帝が実権をにぎろうとするのは当然のことともいえるが、武照にそれをゆるす気はなかったらしい。兄への仕打ちにおそれをなしたのだろう、母の傀儡に徹した睿宗だが、彼の子が将来即位し、楊貴妃で有名な玄宗皇帝となる。武照からすれば孫にあたるわけだ。

690年、民衆や群臣からの懇請を受け入れるというかたちで、武照はついに帝位へ就く。むろん、こうした動きは根回しあってのことに相違ない。人相身が幼女期の彼女を見て「天下のあるじになるでしょう」といったとか、「唐は武氏によって滅ぼされる」という予言がかねてから広まっていたという話も伝わっているが、即位からさかのぼって創られた逸話である可能性が高い。

が、いずれにせよ、中国史上、空前絶後となる女帝の誕生であることには間違いない。国号を「周」とあらため、「聖神皇帝」の称号をたてまつられた。唐王朝はここで一旦途切れたのである。

ちなみに、現在定着しつつある「武則天」という呼び名は、この15年後、死の直前に贈られた「則天大聖皇帝」という称にもとづくもの。かつては「則天武后」の名が一般的だったが、これは彼女を皇帝でなく皇后として扱っていることになる。「武則天」の呼称もいささかあいまいで、本来なら「則天皇帝」とでも呼ぶのが妥当だが、まずは一歩前進というところだろう。

長き生涯の終わり

帝位についた時点で、武照はすでに63歳。この後、死にいたる15年間の治世は功罪相半ばというべきか。宮廷内はつねに波乱ぶくみで、彼女が妖僧や美青年を寵愛したり、権力あらそいによる死者が出たりと平穏からはほど遠い。一方で、名宰相・狄仁傑(てきじんけつ)をはじめとする人材にめぐまれ、契丹(モンゴル系)や突厥(トルコ系)などの対異民族戦にも成果をあげた。彼女が臣下の諫言を率直に受けいれたという記録も残っている。たんなる権力の亡者ではなかったのだ。

その死は78歳のときにおとずれる。かつて廃された中宗が即位し、ふたたび唐王朝が起こった。武照は夫・高宗の陵に葬られる。彼女を皇后の枠に押し込めようという思惑だろうが、ふたりの関係をかえりみると、これはこれでふさわしい気もする。みずからの権力には固執した武照だが、実権をにぎったのちも高宗をないがしろにした痕跡はない。本人たちの心もちは推し量るよりないが、このふたりは意外に相性のよい夫婦だったのではないか。明敏な彼女のこと、自分の道をひらいてくれたのがほかならぬ夫であった事実は、充分わきまえていたに違いない。

孫の玄宗が即位、「開元の治」とたたえられる政治を開始するのは、武照の死後、わずか7年後のことだった。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。

 

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