文/砂原浩太朗(小説家)

司馬懿(しばい)仲達とその一族~三国統一にいたる血脈 前編【中国歴史夜話 13】

司馬懿(しばい。179~251)は、三国志のかくれた主役と呼べるかもしれない。おおかたのイメージでは、諸葛孔明の好敵手という役回りだろうが、ご存じのとおり、最終的に天下を統一したのは、彼の孫・司馬炎が樹立した晋王朝である。司馬懿は実質的な創業者として、のちに「宣帝」の名を贈られている。本稿では、最後の勝利者ともいうべき司馬一族の血脈と、天下平定にいたる道のりを追う。

司馬家の八達

司馬懿の生家は河内郡温県(河南省)の名門。父の司馬防は都で官吏として要職を歴任したが、このとき若き曹操を尉(警察長官)に推挙したという話がのこっている。事実とすれば、これが司馬家と曹一族の出会いとなる。

司馬防はきわめて厳格な人物だったらしく、息子たちは成人してもなお、ゆるしがなければ父のまえでは座らず、問われた内容以外のことばを発することもなかったという。8人の息子たちはそろって優秀だったため、「司馬家の八達」と称された。みな、字(あざな。通称)に「達」の文字がついていたからである。司馬懿の字はよく知られているように「仲達」だが、「仲」は次男であることを意味する。若くして大器との評判がたち、人材獲得に熱心だった曹操から仕官の声がかかった。いちどは病を口実にことわったものの、再度の要請を受け、しりぞければ身があやういと感じて応じる。赤壁の戦い(208)と同年のことであった。

正史「晋書」では、出仕を渋ったのは漢王朝への忠義心からとするが、その生涯を顧みると、司馬懿はもっと怜悧な人物だったように思える。のちに魏を簒奪(さんだつ)する司馬氏としては、意に染まぬ仕官だったというストーリーを作りたかったのかもしれない。

孔明との初対決

曹操の幕下へ参じた司馬懿は、冷徹な洞察力でたちまち頭角をあらわしてゆく。西暦219年、劉備配下の勇将・関羽が都をおびやかし、さすがの曹操も遷都を考えるまでに追いつめられた。このとき諫言し、思いとどまらせたのが司馬懿であり、のみならず呉の孫権に関羽の背後を突かせるよう進言する。この献策が容れられ、関羽は呉に討たれることとなった。

曹操は司馬懿の才を警戒していた節があり、世子・曹丕(魏の文帝)に注意をうながしている。が、司馬懿は曹丕の治世下でこれまで以上に重用され、その死(226)に際し後事を託されるまでになった。ここでしりぞけられていれば、のちの晋王朝はなかっただろう。運命の数奇というものを思わずにはいられない。

231年、魏討伐を果たすべく、諸葛孔明が祁山(きざん。甘粛省)へ進出。魏軍をひきいる司馬懿と孔明が、はじめて正面から対峙する。この折、司馬懿は徹底的な籠城戦術を取った。部将たちの突き上げを抑えきれず、一度は打って出たものの、これが惨敗に終わってからはいっさいの攻撃をひかえる。食糧が尽きた蜀軍は、ついに撤退を余儀なくされたのだった。

五丈原~英雄は英雄を知る

両者の再戦は、この3年後。ところは五丈原(陝西省)、と聞けば察しのつく方も多いだろうが、孔明最後の戦場となった土地である。このときも司馬懿は持久戦術を採り、動こうとしなかった。しびれを切らした孔明は、女性用の髪飾りなどを送って挑発する。「それでも男か」というわけだが、いささか彼らしくない振る舞いと感じるのも筆者だけではあるまい。みずからの命が尽きようとしているのを察し、焦りを覚えていたのかもしれない。

ここまでされては黙っているわけにいかず、司馬懿も攻撃を決意する。今しも出陣しようとするところへ、皇帝(曹丕の子・曹叡=明帝)からの使者が立ちはだかり、自重をうながした。絶妙のタイミングと見えるが、じつはあらかじめ打ち合わせておいたものだという。司馬懿自身が挑発を受け流したくとも、配下の将に臆病者とあなどられるのも不都合。前回はそのためあえて出撃したのだろうが、こたびはそれを教訓として、ひと芝居打ったのである。司馬懿は蜀の使者から孔明が激務をこなすさまを伝え聞き、その死が近いことを確信していた。いそぐ必要はなかったのだ。

けっきょく孔明は、司馬懿の持久戦術に命をけずられるかたちで陣没、蜀軍は撤退する。のこされた砦を視察した司馬懿は、その見事さに感嘆し、「孔明はまこと天下の奇才である」と称賛を惜しまなかった。ちなみに、引きあげる蜀軍を深追いせず退却したことが、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事の出どころとされる。

諸葛孔明の好敵手というイメージの強い司馬懿だが、じっさいの対決はこの二度にすぎない。持久戦に終始したのも前述のとおりである。といって、司馬懿に軍才が欠けていたわけではなかった。これ以前、蜀からの降将・孟達がふたたび故国へ内応しようとした折(228)には、皇帝の許しを得るまえに迅速な攻撃をくわえ、大事にいたることを防いでいる。相手によって、最適と思われる戦術を選んでいたのだろう。孔明との対決は華々しさに欠けると見えるかもしれないが、筆者にはむしろ息詰まる心理戦と感じられる。やはり、このふたりは好敵手といってよいのではなかろうか。

あざやかなるクーデター

239年、明帝曹叡が35歳の若さで病没。太尉(最高位のひとつ)である司馬懿と大将軍・曹爽(そうそう)が8歳の幼帝・曹芳を補佐することとなった。曹爽は、もともと曹一族の出とも、父が曹操に養育され、曹姓をあたえられたものともいう。いずれにせよ、この時点では魏の帝室につらなる身として遇されていた。それもあずかってか曹爽一派の勢力はつよく、司馬懿は幼帝の教育係に祭り上げられ政治の中枢から遠ざけられてしまう。

それでもなお油断ならぬ存在と見られていたらしく、あるとき曹爽一味の者が挨拶と称して司馬懿のもとをおとずれる。彼はこのとき、すっかり耄碌した様子であらわれ、まともに会話も交わせないありさまだった。安心した曹爽らは警戒を解き、わが世の春を謳歌する。

が、これはすべて司馬懿のたくらみだった。249年、明帝の墓参へ出向いた帝に付きそい、曹爽一派が都を留守にする。司馬懿はすかさず決起し、軍を支配下においてしまった。いちどは抵抗しようとした曹爽たちだが、「命までは取らぬ」ということばを受け入れ投降。だが、厳重な監視下に置かれ、ほどなく謀反の罪に問われ処刑されてしまう。むろん、司馬懿は端からそのつもりであったろう。気の毒ではあるが、あきらかに役者がちがったというほかない。
2年後、司馬懿は73歳で世を去る。このクーデターが最後の大舞台となったのも、なにやら彼という人物を象徴しているように思える。そこにロマンやヒロイズムはなく、乾ききったリアリストの姿だけがある。一般的な人気は得にくいかもしれないが、畏敬に足る人物であることは間違いない。

彼は新たな王朝の土台を築いたが、旧主曹操にならったのか、みずから帝位に就くことはなかった。それをかたちにしたのは、その子や孫たちである。後編では、司馬一族が天下統一を成し遂げてゆくさまをたどる。

後編に続く】

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

 

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