文/砂原浩太朗(小説家)
三国志の魅力は多々あるが、軍師や参謀といったブレーンたちの活躍をあげる人は多いだろう。むろん、もっとも有名なのは蜀の諸葛亮孔明だが、敵国である魏もひけをとってはいない。本稿では、初期の曹操政権をささえた名参謀・荀彧(じゅんいく。 163~212)の智謀と、悲劇的ともいうべきその生涯をたどってみたい。
「八龍」の子として
荀彧(じゅんいく)は潁川郡(えいせんぐん。河南省)の出身で、その家系からは数多の人材が出ている。祖父は硬骨漢だったらしく、後漢王朝の外戚(母方の親族)として専横の振る舞いが多かった梁氏と敵対。そのため政界から離れざるを得なくなる。8人の息子はみなすぐれた才能の持ち主で、世に「八龍」と称せられた。荀彧(じゅんいく)の父たちということになるが、このなかから、最高位のひとつ司空へ就任した人物が出たほどである。また、小説「三国志演義」にも登場する魏の謀臣・荀攸(じゅんゆう)はやはり同族で、「演義」では荀彧(じゅんいく)の甥となっているが、荀彧(じゅんいく)の祖父と荀攸の曽祖父が兄弟という関係。年齢も荀攸のほうが6つ上である。
さて、荀彧(じゅんいく)も若くして中央へ出仕したが、黄巾の乱(184)を始まりとする戦乱の世に嫌気がさしたのか、いったん官を捨て故郷へもどる。この折、古老たちに「潁川は四方へ通じているため、いくさに巻きこまれやすい。はやく離れたほうがよいでしょう」とすすめた。が、聞き入れられなかったため、一族をひきいて冀州(きしゅう。河北省)へ脱出する。
この地で群雄のひとり袁紹に乞われ配下となるが、はやばやとその器量を見限り、頭角をあらわしはじめた曹操のもとへ参じた。西暦191年のことである。このとき曹操は、「わしの張良がきた」といって喜んだと伝えられる。張良とは、漢の初代皇帝となった劉邦の参謀。つまり、この言葉からは、荀彧(じゅんいく)への高い評価とともに、天下をねらう曹操の野心がはっきりと窺えるのである。
曹操を天下人へとみちびく
曹操の配下となった荀彧(じゅんいく)は、たぐいまれな智謀で多くの功績をたてるが、なかでも特筆すべきは次のふたつだろう。
西暦196年、曹操は後漢の帝をみずからのもとへ迎えるが、実はこれを進言したのが荀彧(じゅんいく)だった。さまざまな故事をあげ、天子につくことの意義を説いたのである。これを容れたため、以後、曹操はいくさの大義名分を手に入れ、他の群雄たちと一線を画することとなる。魏が三国最大の強国となりえたのも、源をたどればここへ行き着くから、荀彧(じゅんいく)の功は計り知れないほど大きい。
もうひとつは、その4年後、曹操と袁紹が天下の権をかけてあらそった官渡の戦い(200)でのこと。兵糧が尽きかけたため、曹操は留守をまもる荀彧(じゅんいく)に書状を送り、撤退の是非を問うた。このとき、荀彧(じゅんいく)は断固として撤退策をしりぞけ、奇襲を具申する。曹操がこれにしたがい決行した攻撃が図にあたり、敵軍は総崩れとなって退却、袁紹自身も2年後に病死した。後年、曹操は「あのとき撤退していたら、袁紹の追撃をうけて破滅していただろう」と述べ、荀彧(じゅんいく)の功業を高らかに顕彰している。
この戦いに関しては、ほかにも興味ぶかい挿話がある。当時、軍事力からいえば曹操軍1万に対し袁紹軍10万と、格段のひらきがあった。開戦に先立ち、さすがの曹操もためらいを覚えたとみえ、勝算について荀彧(じゅんいく)に意見をもとめている。これを受けて荀彧(じゅんいく)は、袁紹が容易にひとを信じないのに対し、曹操は適材適所を心がけているなど、4つの長所をあげ、あるじを勇気づけた。
これ自体おもむきのある話だが、じつは、ほかの参謀にも似たようなエピソードが残っている。たとえば、郭嘉(かくか)はこのとき、10の長所をあげて曹操を鼓舞した。説話的に尾ひれがついて広がったのかもしれないが、筆者は不安にかられた曹操が、信頼できる謀臣たちに幾度も同じような問いかけをしたと解釈したい。英雄・曹操も一世一代の大勝負をまえに恐れる気もちがあったと想像すれば、かえってその人間くささに惹かれるものを感じるのだ。
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