新着記事

ルーペ付きヘッドが360度回転する爪切り|回転機構で見やすく、力を入れずに楽にカット

斎藤道三親子の対立を煽った美濃守護・土岐頼芸

美濃守護・土岐頼芸が最後に拠った大桑城跡に立つ。14㎞先に望む斎藤道三・稲葉山城に戦国の悲哀を想う【麒麟がくる 満喫リポート】

【義家族との間】夫婦生活10年目。うまく回るためには「頑張るしかない」という関係は家族なのか~その2~

【義家族との間】夫婦生活10年目。うまく回るためには「頑張るしかない」という関係は家族なのか~その1~

生前・遺品整理|しっかり話合いできていますか? 後回しにすると大変な目に…!?

心配な親の孤独死。生前・遺品整理を相談していないと大変なことに…⁉

腰椎疾患のプロが教える、脊柱管狭窄症を自分で治すセルフケア

人気整体師・白井天道が教える「脊柱管狭窄症を自分で治す」ストレッチ

masa2さんによる写真ACからの写真

親の終の棲家をどう選ぶ?|超遠距離介護を続けるシングル一人娘の今――三たび扉は開いた

2020年 猫の寄生虫対策に関する最新調査

猫も「フィラリア症」に感染する! 完全室内飼育でも予防は必要⁉

思春期はなぜいらだつのか【人生のおさらいをするために~児童精神科医・佐々木正美さんからのメッセージ】

思春期のお孫さんのいらだちは順調に育っている証です【人生のおさらいをするために~児童精神科医・佐々木正美さんからのメッセージ】

ライフスタイルからみる世界の新型コロナウイルス感染の拡大状況 【<異文化リテラシー>レッスン2】

ライフスタイルからみる世界の新型コロナウイルス感染の拡大状況 【<異文化リテラシー>レッスン2】

通販別冊『大人の逸品』最新号はこちら

LINE公式アカウントでも記事を配信中

友だち追加

お気軽に友達追加してください

サライ本誌最新号(クリックで試し読み)

ピックアップ記事

  1. 荒川豊蔵資料館蔵の志野筍絵茶碗 銘「随縁」(荒川豊蔵、1961年)。豊蔵が「再発見」した「美濃桃山陶」の陶片である「筍」と文様が共通する。

>>過去の記事へ

サライの通販

>>過去の記事へ

サライ7月号付録「筋トレチューブ」トレーニング動画公開中!

趣味・教養

荀彧(じゅんいく)~曹操をささえた悲劇の名参謀【中国歴史夜話 6】

文/砂原浩太朗(小説家)

荀彧~曹操をささえた悲劇の名参謀【中国歴史夜話 6】

三国志の魅力は多々あるが、軍師や参謀といったブレーンたちの活躍をあげる人は多いだろう。むろん、もっとも有名なのは蜀の諸葛亮孔明だが、敵国である魏もひけをとってはいない。本稿では、初期の曹操政権をささえた名参謀・荀彧(じゅんいく。 163~212)の智謀と、悲劇的ともいうべきその生涯をたどってみたい。

「八龍」の子として

荀彧(じゅんいく)は潁川郡(えいせんぐん。河南省)の出身で、その家系からは数多の人材が出ている。祖父は硬骨漢だったらしく、後漢王朝の外戚(母方の親族)として専横の振る舞いが多かった梁氏と敵対。そのため政界から離れざるを得なくなる。8人の息子はみなすぐれた才能の持ち主で、世に「八龍」と称せられた。荀彧(じゅんいく)の父たちということになるが、このなかから、最高位のひとつ司空へ就任した人物が出たほどである。また、小説「三国志演義」にも登場する魏の謀臣・荀攸(じゅんゆう)はやはり同族で、「演義」では荀彧(じゅんいく)の甥となっているが、荀彧(じゅんいく)の祖父と荀攸の曽祖父が兄弟という関係。年齢も荀攸のほうが6つ上である。

さて、荀彧(じゅんいく)も若くして中央へ出仕したが、黄巾の乱(184)を始まりとする戦乱の世に嫌気がさしたのか、いったん官を捨て故郷へもどる。この折、古老たちに「潁川は四方へ通じているため、いくさに巻きこまれやすい。はやく離れたほうがよいでしょう」とすすめた。が、聞き入れられなかったため、一族をひきいて冀州(きしゅう。河北省)へ脱出する。

この地で群雄のひとり袁紹に乞われ配下となるが、はやばやとその器量を見限り、頭角をあらわしはじめた曹操のもとへ参じた。西暦191年のことである。このとき曹操は、「わしの張良がきた」といって喜んだと伝えられる。張良とは、漢の初代皇帝となった劉邦の参謀。つまり、この言葉からは、荀彧(じゅんいく)への高い評価とともに、天下をねらう曹操の野心がはっきりと窺えるのである。

曹操を天下人へとみちびく

曹操の配下となった荀彧(じゅんいく)は、たぐいまれな智謀で多くの功績をたてるが、なかでも特筆すべきは次のふたつだろう。

西暦196年、曹操は後漢の帝をみずからのもとへ迎えるが、実はこれを進言したのが荀彧(じゅんいく)だった。さまざまな故事をあげ、天子につくことの意義を説いたのである。これを容れたため、以後、曹操はいくさの大義名分を手に入れ、他の群雄たちと一線を画することとなる。魏が三国最大の強国となりえたのも、源をたどればここへ行き着くから、荀彧(じゅんいく)の功は計り知れないほど大きい。

もうひとつは、その4年後、曹操と袁紹が天下の権をかけてあらそった官渡の戦い(200)でのこと。兵糧が尽きかけたため、曹操は留守をまもる荀彧(じゅんいく)に書状を送り、撤退の是非を問うた。このとき、荀彧(じゅんいく)は断固として撤退策をしりぞけ、奇襲を具申する。曹操がこれにしたがい決行した攻撃が図にあたり、敵軍は総崩れとなって退却、袁紹自身も2年後に病死した。後年、曹操は「あのとき撤退していたら、袁紹の追撃をうけて破滅していただろう」と述べ、荀彧(じゅんいく)の功業を高らかに顕彰している。

この戦いに関しては、ほかにも興味ぶかい挿話がある。当時、軍事力からいえば曹操軍1万に対し袁紹軍10万と、格段のひらきがあった。開戦に先立ち、さすがの曹操もためらいを覚えたとみえ、勝算について荀彧(じゅんいく)に意見をもとめている。これを受けて荀彧(じゅんいく)は、袁紹が容易にひとを信じないのに対し、曹操は適材適所を心がけているなど、4つの長所をあげ、あるじを勇気づけた。

これ自体おもむきのある話だが、じつは、ほかの参謀にも似たようなエピソードが残っている。たとえば、郭嘉(かくか)はこのとき、10の長所をあげて曹操を鼓舞した。説話的に尾ひれがついて広がったのかもしれないが、筆者は不安にかられた曹操が、信頼できる謀臣たちに幾度も同じような問いかけをしたと解釈したい。英雄・曹操も一世一代の大勝負をまえに恐れる気もちがあったと想像すれば、かえってその人間くささに惹かれるものを感じるのだ。

【次ページに続きます】

ページ:

1

2

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう

Twitter で

関連記事

  1. 兵馬俑 秦の始皇帝~暴君か英雄か【中国歴史夜話 9】
  2. 太公望(たいこうぼう)~元祖・軍師の実像をさぐる【中国歴史夜話 8】 太公望(たいこうぼう)~元祖・軍師の実像をさぐる【中国歴史夜話 …
  3. 姜維(きょうい)~諸葛孔明を継ぐ者【中国歴史夜話7】 姜維(きょうい)~諸葛孔明を継ぐ者【中国歴史夜話 7】
  4. 周瑜~三国分立を生んだ呉の名将【中国歴史夜話 5】 周瑜~三国分立を生んだ呉の名将【中国歴史夜話 5】
  5. 横浜中華街の関帝廟 関羽~神になった武人【中国歴史夜話 4】
PAGE TOP