文/砂原浩太朗(小説家)
三国志のハイライトといえば、「赤壁(せきへき。湖北省)の戦い」を挙げぬわけにはいかない。天下統一を目指す曹操軍に対し、劉備と呉主・孫権の連合軍が長江をはさんで立ち向かい、名軍師・諸葛亮孔明(181~234)の活躍で奇跡の大勝利を果たす。孫権配下の謀臣・周瑜(しゅうゆ)と孔明の息づまる知恵くらべ、呉将・黄蓋(こうがい)が曹軍にいつわりの降伏を信じさせるため、みずからの肉体を危機にさらす「苦肉の計」など、見せ場にも事欠かない。
が、われわれが知っている「赤壁の戦い」は、小説として後代にまとめられた「三国志演義」にもとづいている。天下分け目ともいうべき戦いの実像は、果たしてどのようなものだったのか。
「弱小」ではなかった劉備軍?
西暦208年、中国北部を統一した曹操が、満を持して南下を開始する。折しも荊州(おもに湖北省および湖南省一帯)の主・劉表が病没、跡を継いだ息子は曹軍への降伏を決定した。客将としてこの地へ身を寄せていた劉備は、かねて曹操と敵対する立場であったから、手勢を率いていちはやく逃亡、孔明を使者に立て、やはり曹軍の脅威にさらされている呉と同盟を結ぶ。
「演義」では、降伏にかたむいていた呉の国論が孔明の弁舌ひとつで動き、瀕死ともいうべき劉備軍が救われたように描いている。が、実際はこの時点で1万余の兵力を有していた。くわえて数百艘の船を動かすことができたから、大軍勢とは言えないまでも、それなりの存在感をはなっている。いっぽう呉の兵力は3万とされるから、手を組む意味はじゅうぶんあったのである。
とはいえ、孔明の兄・諸葛瑾は呉で重用されていたから(第1回前編後編参照)、この縁を活用したことは想像に難くない。同盟に難色をしめす呉の群臣を相手どり論陣を張るというのも、ありえない話ではないだろう。小説的脚色としては順当なところといえる。
「10万本の矢」伝説の出どころ
同盟はむすんだものの、呉の最高司令官・周瑜は孔明の智謀におそれをなし、抹殺をはかる。3日で10万本の矢をつくれなければ、死をもってつぐなうという言質をとったのである。もちろん裏から職人たちへ手をまわし、作業を妨害する算段だった。これを察した孔明は、霧の深い夜に藁束を積んだ船団を率い、曹軍の陣に近づく。雨のように射かけられた矢が藁に突き刺さり、一夜にして10万本の矢を得たのだった。
知恵と知恵がぶつかる「演義」クライマックスのひとつだが、お察しの通り、これは大胆なフィクションというもの。周瑜もひとかどの人物、兵力80万と号される曹軍(実数は20万ほどと思われる)へ挑むのに、内輪もめをしている場合でないことは百も承知だろう。
ただし、このエピソードには原型と思われる史実が存在する。その主人公はほかでもない、呉主・孫権。赤壁の戦いから5年後、ふたたび曹操と対陣した折のことである。偵察に出た孫権の船が、片方の舷側へ矢を射かけられ、バランスをくずして転覆しそうになった。そこでとっさに船を反転させ、もう片方にも矢を受けて安定を取りもどし、ことなきを得たという。これもなかなか気の利いた話だが、演義のエピソードはこの史実からヒントを得たものと目されている。
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