というと、いかにも信長が無理を通したように聞こえるが、養子相続に際して主君の判断をあおぐのは、当時の慣例である。おまけに利久には、利家をふくめ五人もの弟がいたから、他家から養子をむかえて家を継がせること自体に無理があるというほかない。拙著『いのちがけ 加賀百万石の礎』(講談社)では、滝川家の出である利久の妻が、慶次に家督を継がせようとして夫をそそのかした、という仮説を立てたが、当たらずとも遠からずというところだろう。

文武両道の風流人

前田の家督は継げなかった慶次だが、のち利家に仕え、能登で六千石を与えられている。が、天正18(1590)年に出奔、やがて会津の上杉景勝に仕官した。出奔の理由は不明だが、江戸時代中期に書かれた逸話集「常山紀談」では、慶次が「世を玩び、人を軽んじける故」(世の中を斜めに見て、他人に無礼な振舞いが多い)、利家にたびたび意見されたのがきっかけとしている。宮仕えには向かない性質の人物だったのだろうが、家督を継げなかった鬱屈が根底にあったのかもしれない。

とはいえ、ほんらい闊達な気性であったことも確からしく、「本藩歴譜」には「豪爽にして驍勇」とある。漢詩や連歌にも秀でていたというから、文武両道の快男児といって間違いはないだろう。

上杉家に仕えた慶次は、名家老・直江兼続の麾下となる。出羽最上家との戦いに際し、長谷堂城攻めなどで武名をあげたが、関ヶ原ののち主家が米沢へ移る折、浪人して会津に残ったという。そのまま同地で没したというのが加賀藩側の公式記録だが、上杉側の記録では、転封にしたがって米沢に移り、そこで没したとする。近年は米沢説が優勢になっているようだが、どこまでも謎の多い人物といえよう。

新史料でもあらわれない限り、前田慶次の実像はこれからも不明のままだろう。だからこそ、想像力を掻きたてられた小説家や漫画家がこの男に挑み、魅力にさらなる磨きがかかっていく。なかば伝説上の人物として、これからもながい命をたもちつづけるにちがいない。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』(講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

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