文/砂原浩太朗(小説家)

京都 鞍馬寺 仁王門

 日本史上のヒーローと言われて、源義経(1159~89)を思い起こすひとは多いに違いない。活躍した時期も古いぶん、その生涯は数多の伝説に彩られている。が、それだけ彼の実像が見えにくくなっているのも事実。伝説を引き剝がしたとき、われわれの前にいかなる義経の姿が現れてくるのだろうか。

母・常盤は清盛の愛人になったのか

義経の幼名は牛若、通称は九郎という。九男だったためこう呼ばれるが、じつは八男で、叔父にあたる勇士・鎮西八郎為朝をはばかったものという説もある。父は源氏の棟梁・源義朝、母・常盤(ときわ。常磐とも)はその愛人で、九条院(近衛天皇の中宮)に仕える雑仕(ぞうし)、つまり召し使いだった。義経が生まれた1159(平治元)年は有名な平治の乱が起こった年で、平清盛(1118~81)にやぶれた父・義朝は、翌年早々、落ち延びる途中で討ち取られてしまう。兄ふたりをふくめ3人の子をかかえた常盤は当初、大和(奈良県)に隠れたが、のち都にもどって一条長成という公家に嫁いだ。この経緯は不明だが、ふたたび九条院に仕えたのち見初められたという想像も成り立つ。雑仕をしていた女性が公家の妻になるのは稀有なことといっていいから、よほど容色がすぐれていたのだろう。

軍記ものである「平治物語」には、常盤が自分の身を清盛に差しだして子どもたちを救ったというエピソードが記されている。愛人にしたあと、妻として長成に与えたというわけだ。この話は「尊卑文脈」という史料によっても裏づけられているが、この史料自体が後代のもので、「平治物語」の影響を受けている可能性も指摘される。清盛は必要以上にわるく描かれることが多いから、じっさいのところは不明というほかない。

なぜ藤原秀衡を頼ったのか

義経といえば鞍馬寺(京都市)、というイメージを持つ方も多いだろうが、彼が僧侶となるべくここへ預けられたのは事実である。はっきりした時期は分かっていないが、11歳ごろのことではないかと見られている。

だが、僧となるのをきらった義経は、数年を経たのち寺から脱出、平泉(岩手県)にくだった。彼の地に隠然たる勢力を持つ奥州藤原氏の当主・秀衡を頼ったのである。とはいえ都から奥州まで、現代では想像もつかぬほどに遠い。いかに大勢力とはいえ、なぜ義経は秀衡を頼ろうと考えたのか。

鍵は彼の義父・一条長成にある。長成の縁者が娘を秀衡に嫁がせており、嫡子・泰衡をもうけていた。この縁で義経の庇護を引き受けたと考えれば、ぴたりと辻褄が合う。一条家では後年、母を同じくする異父弟が、逐われる身となった義経の逃避行に同行している。なさぬ仲とはいえ、それなりに尊重されていたと見ていい。義経後半生の悲劇を知る我々としては、わずかながらも救いを感じずにはいられない。

ところで、彼を奥州に伴ったのは「金売り吉次」なる商人だったとされる。が、この名の人物が実在したという確証はない。奥州産の金を都で商う者たちの行旅にまぎれ、秀衡のもとへ向かったというふうに解釈しておけばよいだろう。

兄・頼朝との対面、そして暗雲

奥州で6年ほどを過ごした義経のもとへ、1180(治承4)年、異母兄・頼朝(1147~99)が平家討伐の旗を挙げたという知らせが届く。史料としては残っていないが、挙兵にあたって頼朝の呼びかけがあったと見るのが自然である。秀衡の制止にもかかわらず、義経は兄のもとへ向かった。これは頼朝の挙兵を危ぶんだとも、義経の才を見抜いて手もとに置こうとしたとも考えられるが、いずれにせよ決意は固いと察して、有名な佐藤継信・忠信の兄弟を郎党としてつけることとなる。

ちなみに、義経の家臣といえば、まずは武蔵坊弁慶だろう。実在の人物であることはたしかだが、史書にその名があらわれるのは、平家滅亡後、義経が西国に落ちるときの家臣として、軍記ものとして名高い「平家物語」でも、一の谷の合戦(後編(https://serai.jp/hobby/1071131)参照)が初めてである。むろん、それ以前の痕跡がないというだけだから、いかようなストーリーも成り立つが、歴史的にそうであるということは知っておいていい。

さて、挙兵後いちどは石橋山で大敗した頼朝だが、いきおいを盛り返し、富士川(静岡県)で平家の討伐軍を撃退する。義経が東国に辿りつき、兄と対面を果たしたのはこの翌日だった。戦勝にくわえ、遠国から弟が参陣したのだから、頼朝のよろこびは容易に想像できる。ともに涙を流して語り合った、と鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」にも記されている。実は、義経が正史に名をあらわすのはこのときが最初。ここで語られた内容からさかのぼって、生い立ちなどが記述されることになる。そのため、学術的な伝記では兄弟の対面から筆を起こす場合も多い。

しかし、この翌年、はやくもふたりの間を暗雲がよぎる。鶴岡八幡宮の若宮(下宮)造営にあたり、大工に与える馬を引くよう命じられた義経が、これを拒んだのだった。それは家来のやること、というわけだが、兄に叱責され、結局はしたがう。頼朝は弟といえども家臣のひとりとして扱おうとし、義経は身内としての特別待遇を望んだのだろう。悲劇は、すでに始まっていた。

「天才武将伝説」のはじまり

義経の初陣は1184(寿永3=元暦元)年、木曾義仲の討伐戦がこれにあたる。義仲は頼朝・義経兄弟のいとこだが、ひとあし先に上洛し都から平家を逐った。その後は貴族たちの慣習を無視する振る舞いが多く、後白河法皇や近臣をはじめ、都びとの憎しみを買ってしまう。遅れをとった頼朝からしてみれば好機というほかなく、やはり弟のひとりである範頼と義経に義仲追討の軍を与えて出陣させる。

とはいえ、この時点での将帥は範頼のほうだった。義経は頼朝の代官として、ごくすくない人数とともに伊勢(三重県)・近江(滋賀県)まで出張っていたところ、あとから本軍を率いて到着した範頼と合流したのである。この時点では、武将として義経の力量を知る者はないのだから、年長の範頼を総大将にしておこう、という判断が下されてもおかしくはない。

が、二手に分かれて都へ入った東国勢のうち、宇治川を渡った義経軍は敵勢をさんざんに破り、後白河法皇を保護するという大功を立てた。敗走した義仲は討ち取られ、くわえて義経配下の兵は狼藉もおこなわなかったため、彼の声望は一気にあがる。それは、日本史上に燦然とかがやく「天才武将伝説」のはじまりでもあった。

源義経~悲劇の天才武将(後編)に続く

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。

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