文/砂原浩太朗(歴史・時代小説家)
今からおよそ440年前、この山で天下を決する戦があった
賤ヶ岳(しずがたけ)をおとずれるのは初めてではない。『いのちがけ 加賀百万石の礎』(講談社刊)という小説を執筆する際、足をはこんだ。作中、原稿用紙120枚分をついやし賤ヶ岳の戦いを描いたのである。
とはいえ、その折はリフトで山頂まであがったから、登山は初挑戦ということになる。風にまだ冷たいものがまじる快晴の一日、駅から余呉湖畔をすこし歩き、「岩崎山登山口」からスタートした。
賤ヶ岳の戦いが起こったのは、1583(天正11)年春。ここ余呉湖をはさみ、羽柴(のち豊臣)秀吉と柴田勝家が、ひと月にもわたる睨み合いを続けた。織田信長の後継者たらんとする両雄の激突である。余呉湖の南から東にかけては賤ヶ岳、大岩山、岩崎山の三峰が尾根つづきに連なっており、いずれも羽柴方が陣取っていた。
くだんの岩崎山登山口は見上げるような傾斜で、一瞬、恐れをなしたが、そこを越えると比較的歩きやすい道が続いている。木の間隠れに余呉湖が望め、その見え方で、いつの間にかそれなりの標高に達していると気づいた。
1時間ほど歩くと、大岩山の砦跡に辿りつく。小高くなっているところはいかにも砦らしいが、思ったより小さく感じられた。幼稚園の園庭くらいだろうか。
奥には2m以上もあろうかという墓がそびえていた。この砦を守っていた武将・中川清秀のものである。清澄な大気のなか、瞑目してこうべを垂れた。
秀吉の「美濃大返し」
ひと月に及ぶ滞陣ののち、秀吉は本隊を残したまま大垣(岐阜県大垣市)へ向かう。勝家と結ぶ岐阜の織田信孝(信長の三男)を攻撃せんとしたのだった。
その隙に大岩山を急襲し、清秀を討ち取ったのは、柴田方の佐久間玄蕃盛政。「鬼玄蕃」と称される猛将である。近くには、清秀の首を清めたという池も残っており、いくさの激しさがしのばれた。
が、大岩山を陥とした盛政の前に突如、秀吉勢があらわれる。大垣から52kmの距離を5時間で戻ってきたのだ。秀吉は敵を誘い出すため、あえて陣を離れたのである。
さすがの盛政も撤退を余儀なくされるが、殿軍(しんがり)をつとめた実弟・柴田勝政(勝家の養子)軍と羽柴方が賤ヶ岳附近で戦端を開く。弟を救うべく盛政も引き返し、両軍の激突となった。これが一般にイメージされる賤ヶ岳の戦いであり、七本槍 (※秀吉方で武功を上げた7人。脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明)の活躍もこの時のこと。
戦国屈指の夢の跡に眠る兵(つわもの)どもの息吹を体感する
その賤ヶ岳山頂へ着く手前には、見上げるような坂が待ちうけていた。これが終わりそうで、なかなか終わらない。行く手にあるはずの絶景を思い描き、登りつづけた。
ようやく辿りついた山頂では、空が高くひらけていた。正面には余呉湖、左手に琵琶湖がのぞめる。やはり風は冷たいものの、よく晴れ渡り、どちらの水面も青く白くきらめいていた。何の変哲もないミネラルウォーターやおにぎりが、やけに美味しく感じられる。
あまりの美しさに、古戦場であることを忘れそうになった。が、ここで数多の血が流れたことはいうまでもない。決戦たけなわにして柴田方の前田利家が撤退し、勝機は秀吉にかたむいた。盛政は敗れ、居城・北庄(福井県)に退いた勝家も、城に火をかけ自刃する。
下りはじめてすぐに、そうしたことどもを思い出す。古びた祠が道のかたわらにたたずんでいたのである。賤ヶ岳での戦死者を弔うため、地元の人びとがこしらえた石仏を集めたものという。
この絶景を見つめながら散った命があるのだ、ということをあらためて意識する。それは、無残であるようにも、せめてもの救いであるようにも感じられた。
賤ヶ岳の歩き方
立ち寄り処
琵琶湖の特産ビワマスを食し地元の銘酒・七本鎗に唸る
●住茂登(すみもと)
滋賀県長浜市大宮町10-1 電話:0749・65・2588 営業時間:11時30分~14時30分、17時~21時 定休日:不定 58席。交通:JR長浜駅から徒歩約12分
http://sumimoto-kamo.com/
●冨田酒造
滋賀県長浜市木之本町木之本1107 電話:0749・82・2013
http://www.7yari.co.jp/index2.html
砂原浩太朗さん(歴史・時代小説家・51歳)
昭和44年生まれ。平成28年、前田利家とその家臣を描いた「いのちがけ」で「決戦! 小説大賞」を受賞しデビュー。近著に『高瀬庄左衛門御留書』(第34回「山本周五郎賞」候補作品)、『逆転の戦国史』がある。
※砂原浩太朗さんのデビュー作『いのちがけ 加賀百万石の礎』の文庫版(講談社文庫)が5月14日に発売されます。
※この記事は『サライ』本誌2021年6月号より転載しました。(取材・文/砂原浩太朗 構成/角山祥道 撮影/小林禎弘)