文/砂原浩太朗(小説家)

上杉謙信像(春日山城跡)

上杉謙信(1530~78)は、武田信玄(1521~73)と互角の戦いを繰り広げた名将として知られる。信玄とならんで「戦国最強」と称されることもしばしば。武勇だけでなく、乱世にまれな義将というイメージも人気の理由だろう。はたして謙信という男の実像は、どのようなものだったのか。

兄にかわって当主となる

謙信が生まれたのは1530(享禄3)年。いわゆる「三英傑」より一世代前の武将という印象が強いが、織田信長からは4歳上にすぎない。越後(新潟県)の守護代・長尾為景の子で、幼名は虎千代という。母の素性には複数の説があるが、一門の女性だったことは確かと見ていい。父・為景は守護代ながら実質的に越後一国を支配しており、下克上の典型と見なされる人物だった。

上杉姓となるのは1561(永禄4)年、謙信と号するのはさらに後年のことだが、この稿では謙信で統一する。嫡男ではなかったため、長尾氏の居城・春日山(上越市)にある林泉寺へ預けられたが、住職たる天室光育に武人の資質を見抜かれ、父のもとへ帰されたという。この話は創作という見方もあるが、謙信と天室光育に深いつながりがあったのは確かだから(後編参照)、事実としてもおかしくはない。

謙信の幼少期については分からないことが多く、父・為景の没年にさえ諸説がある。かつては謙信が7歳のとき亡くなったとされていたが、近年の研究では、12歳の1541(天文10)年没という説が有力。前年に家督を嫡男の晴景にゆずっていたと見られる。謙信は景虎を名のり、兄を支えて領内の統治に尽力することとなった。

が、晴景は病弱の身だったらしい。家臣を束ねる力量も不足していたのか、謀反をたくらむ重臣もあらわれた。これを謙信が討ち取ったとされているから、その武名は大きくあがったものと思われる。晴景より謙信を支持する声が高まっていったのだろう、兄との仲に不穏な空気が立ち込めてしまう。形ばかりとはいえ、いまだ権威の残っていた越後守護が調停し、謙信が家督を継いだのは、1548(天文17)年、19歳のときだった。

川中島への道

当主となった翌年、謙信は関東管領・上杉憲政から出兵の要請を受ける。相模(神奈川県)の北条氏から圧迫を受ける憲政が、もともと家臣筋にあたる越後の領主を通じて救けをもとめたのだった。承諾はしたものの、この時期はいまだ自国内をも従えきれておらず、じっさいの出兵は憲政自身が越後へ逃れてきた1552(天文21)年となる。

謙信が援助を引き受けた動機だが、むろん戦さに大義名分ができるということも見逃せない。が、彼の生涯を見わたしてみると、足利13代将軍義輝をはじめ中世的権威への尊重、ならびに自分を頼ってきた相手へ報いようとする姿勢が通底していることに気づく。よくもわるくも独自の美意識をつらぬこうとするのが謙信という男であり、こうしたところが義将などと呼ばれる所以なのだろう。徹底的なリアリストである甲斐(山梨県)の武田信玄と長年にわたって抗争を繰り広げたのは、運命的とも思える。

その信玄とはじめて川中島(長野盆地)で干戈をまじえたのは、1553(天文22)年8月。家督を継いで5年後にすぎず、謙信はいまだ24歳の若さである。対する信玄(当時は晴信)は33歳。父・信虎を追放し当主の座について12年、信濃(長野県)制圧を目前としていた。同国は小領主の割拠する状態が続いていたが、信玄は10年以上をかけて征服、最後の難敵・村上義清を駆逐したのが同年4月である。この義清が越後へ逃れ謙信を頼ったのが、両雄激突のきっかけとなった。

この出兵が謙信の義心から来るものかどうか、論じることにあまり意味はないだろう。武田の勢力はすでに居城・春日山まで数十キロのところへ迫っており、黙過できる状況ではなかった。が、ここで義清ほか信濃の領主たちから頼られたことも、彼の内面には大きな意味を持っていたのではないか。前述のように、謙信はその生涯で要請を受けて出兵ということを度々おこなっており、たとえば信玄などにくらべると、戦さに大義名分を求める気質がうかがえるように思う。

国主引退を宣言

信玄が村上義清を逐った数か月後、両雄ははじめて川中島でまみえる。同地は交通の要衝であり、つごう5回にわたって上杉・武田激突の舞台となった。このときは、当初越後方が優勢だったものの、信玄軍が巻き返して撤退せざるを得なくなる。

謙信の強悍さを目の当たりにして、信玄は足もとをかためる策に出る。武田はもともと駿河(静岡県)の今川家とつながりが深く、信玄の姉は今川義元に嫁いでいた。この女性の没後は、義元の娘をみずからの嫡子・義信の妻に迎えてもいる。ここに北条氏をくわえ、三国同盟を結んだのだった。強敵・謙信と対するため、後顧の憂いを払おうとしたのだろう。

同時に越後へ調略の手を伸ばし、家臣団の切り崩しをはかる。武田に呼応して挙兵する重臣もあらわれた。ほかに家臣同士のあらそいも起こり、謙信の思うにまかせぬ日々が続くこととなる。

川中島第2回戦(1555)で、200日の長陣を経て見るべき成果もなく帰国した翌年、彼は想像を絶する挙に出た。なんと国主引退を宣言し、出奔してしまったのである。越後国内が騒然となったことは言うまでもない。

上杉謙信~もうひとりの「戦国最強」(後編)に続く

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。

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