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元号ものがたり~改元にまつわる珍談・奇談あれこれ【にっぽん歴史夜話14】

文/砂原浩太朗(小説家)

元号ものがたり~改元にまつわる珍談・奇談あれこれ【にっぽん歴史夜話14】

明治、大正、昭和、平成……。ふだんごく普通に使ってはいても、あらためて「元号」というものに思いをいたすことは少ない。が、現在これを用いている国は世界で日本だけであり、ひとつの文化といっていい。また、「応仁の乱」や「天保の改革」など、元号を冠して歴史的事件をかえりみることも、しばしばである。改元に関心があつまる昨今、あらためて「元号とはなにか」を振りかえってみるのも意義のあることではないだろうか。

元号の誕生

最初に押さえておきたいのは、呼び方の問題である。「元号」といい、「年号」ともいう。意味としてはどちらも同じだが、後述の大宝律令(701)では「年号」とされた。が、明治維新のおりに「元号」が呼称として採用されたため、現在ではこちらが正式と言える。本稿でもこれに統一して話をすすめたい。

元号は中国を発祥の地とする。前漢・武帝(在位BC141~87)の時代に定められた「建元」が世界初の元号である。即位の翌年(BC140)が建元元年にあたるが、これは治世の途中で役人の発案によって元号を定めることとなり、さかのぼってこの年を元年としたもの。その後、ラストエンペラー溥儀(ふぎ。1906~67)で有名な清朝の滅亡(1912)まで2000年以上にわたって用いられた。

日本ではじめての元号は、よく知られているように「大化」である。645年、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)が朝廷の実力者・蘇我氏を討ち、天皇中心の政治を目指した。このとき制定されたものだが、中国(当時は唐)をモデルとした国づくりをおこなうという意志表示でもあるだろう。

だが、大化・白雉(はくち)とつづいたものの、すぐには根づかず、途絶えた時期も長かった。現代までつづく元号のスタートは、701年を元年とする「大宝」。この年、大宝律令が完成した。大化の改新から半世紀以上を経て、ついに国家統治の基本となる法典が整備されたのである。そのなかに、「公文書などでは年号を用いよ」という一条が定められた。以後、この国では途切れることなく元号が使われつづけている。

元号はいくつある?

このようにして生まれた日本の元号だが、いくつあるかご存じだろうか。「大化」から「平成」まで247というのが正解。新元号は248個めということになる。明治以降は天皇ひとりにつき一つと決まったが、これを「一世一元」といい、明(1368~1644)からはじまる中国の制度を取り入れたもの。それ以前は災害が起こったときや慶事があったときなど、さまざまな理由で改元されていた。また、室町時代の初期には、天皇家が南朝と北朝にわかれて争い、それぞれに別の元号を立てている。どちらが正統かという議論が盛んだった時期もあるが、前述の数字は南北両朝の元号をふくむものである。

最長・最短の元号は?

最長の元号は、言わずとしれた「昭和」(64年)。じつは世界最長でもあり、これに中国・清の「康煕(こうき)」(61年。1662~1722)、「乾隆(けんりゅう)」(60年。1736~95)がつづく。日本に話をもどすと、2位は「明治」(45年)、次いで「平成」(31年)かと思われるだろうが、「応永」(35年)が3位である。これは、1394年から1428年まで用いられたもので、足利3代将軍義満・4代義持の世にあたる。室町幕府がもっとも強盛だった時期であり、世上が安定していたというひとつの証しでもある。平成に次ぐのは、平安京への遷都で知られる桓武天皇の治世「延暦(えんりゃく)」で、782年から806年までの25年。やはり近代以前、ながくつづいた元号の背後には強大な権力者がいると見て間違いない。

ちなみに、最短の元号は「暦仁(りゃくにん)」。鎌倉時代の1238年から1239年まで用いられたが、実質は2ヶ月半しかなかった。これは、読み方が「略人」(人が消える)を連想させるとして不評だったため。制定前に分からなかったのかという気にもなるが、むかしも今も新元号とは内々に決められるものなのである。同様の例としては、江戸時代に9年で改元された「明和」(1764~72)があるが、これは「明和九年」が「めいわくな年」に通じるとして嫌われたもの。ほかにも、「焼亡」につながるといわれた「正保」(1645~48)など、不人気だった元号がいくつかある。ことばの響きに敏感な日本人らしいといえるだろう。

くじ引きで決まった「明治」

最後に、元号の決定にまつわるエピソードをひとつ紹介しておきたい。日本の近代を象徴するともいうべき「明治」だが、これが定められた経緯はほかに例を見ないものである。明治天皇の父・孝明帝の時代は幕末の動乱期にあたり、20年ほどのあいだに6回もの改元がおこなわれた。1年程度しか用いられなかったもの(万延、元治)もあって、おおいに混乱を招いたという。

この反省もあってか、新政府の重鎮・岩倉具視(1825~83)が主導して「一世一元」の制が定められるのだが、元号の決定に際しては、三案に絞ったなかから新帝本人がくじ引きで選んだ。このやり方も、岩倉ないしその周辺の発案とされるが、日本史上、ただ一度きりのことである。以後は、元号がいずれ帝の諡(おくりな。死後の呼称)となる(生前には呼ばれない)。それをはじめて選ぶのだから、最後は天意に任せようという思いがはたらいたのだろう。史上初のこころみに、さすがの岩倉もいくぶん恐れをなしたのかもしれない。

「明治」は室町以来、たびたび候補となりながら、なぜか選ばれてこなかったものである。その数10回というから、この方法でなければ、今回も見送られていた可能性があるだろう。歴史のふしぎというものを感じずにはいられない。

本家の中国はもちろん、朝鮮(現・北朝鮮、韓国)、ベトナムなどかつて元号を用いていた国も20世紀なかばまでには残らず廃止し、現在使用しているのは日本だけである。西暦との併用は煩雑でもあるから、戦後しばしば元号廃止論が起こった。筆者自身をかえりみても、平成以降は西暦で物ごとを記憶することが多い。だが、本稿で振りかえったように、元号はすでに日本の歴史にふかく根づいている。これからもひとつの伝統文化として、長く保たれてゆくものと思えるのである。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

 

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