文/砂原浩太朗(小説家)

大阪城

真田信繁(幸村)~戦国の最後をかざる名将(前編)はこちら

上田城の攻防

上杉討伐の軍を離脱し、居城の上田(長野県上田市)に引き上げた昌幸・信繁父子は、3万8千にもおよぶ徳川秀忠軍を迎え撃つこととなる。対する真田勢は3000~5000人というところだった。1600(慶長5)年9月6日、城外に出た数十騎の真田勢に敵の軍勢が襲いかかる。が、逃げる真田方を追って城に近づいたところで、矢と鉄炮の攻撃に遭い、大きな被害を出した。つづいて真田は堰き止めていた川を溢れさせ、伏兵で攻撃するなどの奇策を駆使して徳川方を翻弄する。秀忠はついに上田攻略を断念し、関ヶ原に向かったものの間に合わなかったことは、よく知られた話である。

これが第二次上田合戦と呼ばれるいくさだが、戦いの詳細は軍記ものに頼るしかなく、真田勢の華々しい活躍はフィクションである可能性も高い。秀忠がはやばやと西上の途についたのは、関ヶ原への参着を優先するよう家康から指示を受けたため。圧倒的な物量差を考えると、そのまま攻撃がつづいていれば上田城を守りきるのは難しかったろう。

ただ、結果的に城を持ちこたえ、秀忠が関ヶ原に遅参したのは事実であり、真田の武名があがったことは間違いない。上田城の攻防は、信繁の参加がはっきり確認できる最初のいくさでもあった。

九度山での日々

関ヶ原で西軍が破れたため、昌幸・信繁父子は敗軍の将となったものの、いのちだけは許される。東軍についた兄の信之が一命を賭して嘆願したという話がよく知られているが、じつはこのことをはっきり裏付ける良質な史料も存在しない。信之はこの後、父と弟への仕送りを絶やさなかったし、嘆願じたいはおこなってふしぎもないが、真田にまつわる物語には誇張や脚色が付きものであることも頭に留めておきたい。

真田父子の隠棲先としては紀州九度山が知られるが、昌幸と信繁はまず高野山の蓮華定院に身を寄せた。真田氏が旦那となっている寺であり、この仲介によって、山麓の九度山に居を構えることとなる。

ほぼ14年にもおよぶ流人暮らしは、かなり窮迫したものだったらしい。嫡男の大助をはじめ子にはめぐまれたものの、そのぶん生活費もかかる道理である。父の昌幸は1611年に没し、信繁が姉の夫に宛てた手紙では、「歯が抜けて、髭は白くなった」など、弱気を洩らす姿がうかがえる。おそらく、このまま朽ちてゆくのだと覚悟し、絶望的な気もちに見舞われることもあったのではなかろうか。

真田丸

1614(慶長19)年10月、徳川と豊臣のあいだに戦が避けられない情勢となる。信繁も大坂方からの誘いを受け、入城を決意した。当座の支度金も出たうえ、勝利のあかつきには50万石の恩賞を約束されたという。入城の動機は本人しか分からぬものだし、豊臣家への思いもあったろうが、生活を保障されたのみならず武名をあげる機会まで訪れたことになる。九度山での逼迫した暮らしを思えば、信繁ならずとも心が動いてふしぎはないといえる。

入城した信繁は、大坂城南東の玉造口に出丸を築いた。これが名高い真田丸である。いわゆる大坂冬の陣で、信繁はこの砦に拠って大きな戦果をあげた。とくに12月4日、越前松平、井伊、前田らの軍勢をさんざんに打ち破ったことが知られている。

このとき用いた戦略は、敵方を真田丸近くまで引き寄せ、鉄炮で釣瓶撃ちにするというもの。上田城で二度に渡って徳川方を悩ませた亡父・昌幸も、この戦法を用いたとされる。第一次上田合戦の折、信繁は上杉の人質となっていたから、秀忠軍を相手取った第二次合戦の際、父のかたわらでその戦略を身につけたのだろう。実戦経験のすくない信繁だが、武将としての資質には恵まれていたと見ていい。

夏の陣に散る

この後、信繁には徳川方から帰順を誘う手が伸びたものの、きっぱりと断っている。敵方の策であることを見抜いていたに違いない。信繁の武名が大いにあがった証しでもあった。

だが、せっかく築いた真田丸も早々に取り壊されることとなる。和議が成立し、本丸以外の破却が条件となったのだった。徳川方が外堀のみならず内堀まで強引に埋めたという話が有名だが、必ずしも事実とはいえない。豊臣方も和睦を急いだため、この条件を呑んだと見られている。とはいえ、これを利用して最後の決戦に持ち込む意図は当然あったと思われるから、大筋はおなじと考えてもいいだろう。

本格的な夏の陣の開始は1615年5月6日。翌7日、茶臼山(大阪市天王寺区)に陣を布いた信繁は越前松平家の軍勢を突き崩し、家康の本陣に三度まで迫った。が、力およばず退却する途中、越前家の士に討たれて生涯を終える。その奮戦ぶりは、敵からも「日本一の兵(つわもの)」と称賛され、後世まで武名を残すこととなった。

嫡子・大助は翌8日、大坂城と運命をともにしたが、娘たちは生き残り、信繁の血を伝えた。とくに有名なのは、伊達家の臣・片倉小十郎の妻となった三女・梅。大坂落城の折、略奪同然にさらわれてきたようだが、素姓が分かって室に直ったという。これも信繁の令名あってのことというほかない。

名将知将の名をほしいままにしている信繁だが、戦さ場に立ったことがはっきり確認されるのは、第二次上田合戦、大坂冬・夏の陣の三度にすぎない。が、それでいて彼は日本史上に鮮烈な像を刻んでいる。不利を承知で強大な敵に立ち向かい、追い詰めながらも果たせず散ったというドラマが人々の心を揺さぶるのだろう。その人気は、これからも続いてゆくに違いない。幸不幸は本人にしか分からぬものの、類いまれな武将だということはたしかである。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、『霜月記』、『藩邸差配役日日控』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、『読んで旅する鎌倉時代』、『どうした、家康』などがある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。

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