文/砂原浩太朗(小説家)
松平不昧(ふまい。1751~1818)をご存じだろうか。江戸後期の出雲松江(島根県)藩主だが、むしろ茶人としてのほうが名高い。諸大名にも弟子を持ち、その茶道は「不昧流」と称せられるほどの存在感を誇っている。が、それに比べると、藩主としての不昧が語られることは少ない。大名として、茶人として、その生涯をあらためて俯瞰してみたい。
借財だらけの藩を継ぐ
本稿は不昧で統一するが、これはおもに隠居後名のった号であり、諱(いみな。正式な名)は治郷(はるさと)。6代藩主・宗衍(むねのぶ)の次男として江戸で生を享けた。幼名は鶴太郎といい、長男が夭折したため嗣子となる。ちなみに不昧の松平家は、徳川家康の次男・結城秀康の血を引く家系。当時、松江藩の財政は、相次ぐ天災や幕府から命じられた普請のため破綻しており、これ以上の借金すらできない有りさまだった。
17歳にして7代藩主となった不昧は、家老・朝日丹波を片腕にして、藩政改革へ乗り出す。これは倹約と年貢の増徴を柱とするもので、七公三民というきびしい税率を課した。ほかにも借財の棒引き、役所の統廃合といった施策を推し進めた結果、松江藩の財政は立ち直り、4万両にもおよぶ蓄えが生じたという。このため不昧は松江藩中興の祖と仰がれることになるのだが、じっさいに改革を主導したのは朝日丹波であり、功績は彼に帰すものと考えるのが妥当だろう。また、きびしい年貢の取り立てによって百姓たちが疲弊したことも忘れるべきではない。
日本の名物残らず集め候
不昧はおさないころから学問や武芸をこのみ、英主の片鱗を見せていたという。茶道も幼少より学んでいたが、藩主となった翌年、石州流に入門し、これが不昧流の原点となった。同年には「贅言 (むだごと)」なる書物をあらわし、道具自慢に走りがちな茶道を批判している。釜ひとつあればよいのだと、千利休の精神へ立ち返ることを説いたのだった。
ところが、藩庫に余裕が生じたことから彼の姿勢は大きく変わっていく。24歳のとき、500両で「伯庵茶碗」という名器を購入したのを皮切りに、とめどなく名物収集に耽った。なにしろ貸し本屋だった商人が、不昧の散財を目の当たりにして茶道具へ商売替えしたというから、その凄まじさが想像できるだろう。また、道具商だけを当てにするのではなく、みずから市中へ出向いて逸品を探し求めたという。とうとう500とも800ともいわれる名器を入手し、「日本の名物残らず集め候」と豪語した。のみならず、松江塗を奨励、名工・小林如泥(じょでい)を重用するなど、工芸の発展にも力を尽くしている。
如泥については次のような逸話がある。不昧が諸侯にお抱えの名工自慢をしていたところ、「いかに名人とはいえ、瓢箪のなかに紙を貼ることはできないでしょう」という声があがった。そこで如泥は液状にした紙の原料を瓢箪に注ぎ入れる。割ってみると、みごと内側に紙が貼られていた。呑気といえば呑気な話だが、名物にしろ名工にしろ、それらを見出す審美眼が不昧にそなわっていたことは間違いない。
余談ながら、彼の父・宗衍は女色への耽溺で知られている。侍女たちの肌に花の彫り物を入れさせ、それが透けて見えるよう薄い紗の着物を着せたという。あくまで巷説ではあるが、事実とすれば、ひとつことに没頭する気質は、父ゆずりと見ていいだろう。
そして名君伝説へ
1781(天明元)年に改革の主導者・朝日丹波が隠居すると、藩の財政はふたたび危機を迎える。いわゆる天明の飢饉が松江領内にも襲いかかり、被害は15万石分にも及んだ。松江藩の石高は18万6千石であるから、ダメージの深刻さが推し量れるというもの。死者は数千人にのぼり、農民たちは決起して打ちこわしに走った。が、この時期にも不昧の収集癖はやまず、「油屋肩衝(かたつき)」なる茶入れを1600両で購入している。
46歳から隠居するまでの10年は親政をおこなったが、この間には特筆すべきことがない。つまり極端な失政もなかったということで、政治家としては、公平に見て可もなく不可もなくというところではないだろうか。
とはいえ、文化人としての不昧は、江戸期を見渡しても突出した存在といっていい。隠居ののちは品川の高台に暮らし、悠々自適の余生をおくった。彼が収集した茶器には、現在、国宝や重要文化財に認定されているものがふくまれ、「古今名物類聚」などの著作も高い評価を得ている。ちなみに、名物とは由緒ある茶道具のことだが、これを制作時期などによって詳細に分類したのも不昧の功績である。
茶人としては諸侯を弟子に持ち、なかでも姫路城主・酒井忠以(ただざね。号は宗雅)は、遺言でみずからの収集した茶道具を不昧にゆずるほど心酔していた。その鑑賞眼に絶大な信が置かれていればこそだろう。また、忠以の弟で画家の酒井抱一(ほういつ)とも交流があった。
筆者は松江という街のたたずまいが好きで幾度か訪れているのだが、現在につづく文化都市としての基礎をつくったのは、やはり不昧だろう。学問を奨励し、藩内に好学の風を行き渡らせたことも見逃せない。彼がいまだ地元で「不昧公」と尊称され、名君と仰がれるのも、そうした面が敬意を集めているからではないか。いつの世も、民衆の嗅覚はあなどれぬものである。
ノイシュヴァンシュタイン城を築き、ワーグナーを保護したルートヴィヒ2世を持ち出すまでもなく、芸術の世界が情熱あるパトロンに支えられてきたことは間違いない。松平不昧が日本史上有数のパトロンであり、江戸文化に多大な貢献を果たしたのも確かである。政治家としての業績には疑問を感じながら、やはり筆者にも彼を是としたい気もちがあることを言い添えておきたい。
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。
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