文/砂原浩太朗(小説家)

真田幸村像(上田駅)

真田信繁(幸村。1567?~1615)の名は、むかしも今も多くのひとに知られている。知名度でいえば日本史上でも屈指の存在ながら、必ずしも歴史を動かしたわけではない。そうした人物が、なぜこれほどの人気を誇っているのだろうか。

幸村か信繁か

彼の人生を辿るに際し、まず名まえのことに触れておかねばならない。ながらく「真田幸村」として親しまれてきたが、近年、まことの名は「信繁」であることが周知されつつある。うっかり「幸村」などと言おうものなら、歴史ファンから白い目を向けられかねないほどだ。

とはいえ、「幸村」の歴史もなかなかに古い。1672(寛文12)年、軍記ものに登場したのが最初だから、没後わずか50余年ということになる。この名が講釈などで広く流布したため、正式な系図にまで逆輸入された。ついには徳川幕府の編纂による系図集「寛政重修諸家譜」でも、「幸村」と記されるにいたる。近代になり、大正時代の講談シリーズ「立川文庫」で真田十勇士とともに人気を博し、この名が決定づけられた。

ちなみに九度山(後編参照。和歌山県九度山町)蟄居後、みずから幸村名を用いるようになったとする史料もあるが、その信憑性には疑問の余地がある。ただし作家にはありがたい説で、ドラマなどではもちろん、筆者自身も、「幸村」を用いたいがために、この設定を利用したことがある。

ではなぜ、その名が生まれたかだが、徳川氏の支配下で、神君家康に敵対した武将を実名のまま持て囃すのは憚られたということではないか。大石内蔵助が、「仮名手本忠臣蔵」で大星由良之助になるのとおなじ道理である。

筆者も、実名が「信繁」であることにまったく異論はないが、九度山などの旧跡をたどれば、民間ベースではまだまだ「幸村」なのだと痛感する。じっさいは「信繁」であることを踏まえつつ、民衆に愛された「幸村」も大切にする心もちがあっていいように思う。

謎多き出自

信繁は、信濃(長野県)の武将・真田昌幸の次男。事典類を見ると、その生年はたいてい1567(永禄10)年となっている。これは大坂夏の陣で戦死したおり49歳という伝承にもとづくもの。が、この説で19歳となる1585年に彼が幼名で署名した文書が残っており、当時の常識ではとうに元服している年齢であることから、疑問が呈されている。ほかには1570年説と1572年説があり、後者であれば通説より5歳下になる。今のところいずれかに決定づける証しはないが、生まれ年に関する混乱は戦国武将によくあることで、信繁がとくべつというわけではない。

また、生母である山之手殿(昌幸正室)は有力公卿・菊亭晴季の娘とされるが、昌幸は晴季より8歳齢下にすぎず、20歳のときにやはり山之手殿とのあいだに長子・信之をもうけている。絶対に無理とはいえぬものの、この説はいくぶん難しいのではなかろうか。菊亭家につらなる公家の娘という説もあり、これが誤って伝わったとする見方には説得力を感じる。

なお信繁の風貌や性質についてだが、「小兵」(小柄)という記録があり、兄・信之の言として、「柔和、もの静かで……腹を立てることがなかった」というものが残っている。見るからに豪傑というタイプではなかったところが面白い。

人質となった若き日々

真田家は、信繁の祖父・幸隆の代から甲斐(山梨県)・武田家の臣となった。父・昌幸はもともと三男だったが、長兄と次兄が長篠・設楽原の戦い(1575)で落命したため、家を継ぐ。主家の滅亡後は、織田氏・徳川氏を経て、上杉景勝(謙信の甥で養子)にしたがった。1585(天正13)年、信繁は人質として上杉のもとへ送られたが、家臣に取り立てられる。作家としては、景勝にすぐれた資質を見込まれてのことと考えたいが、基本的には昌幸への懐柔策だろう。信繁は、景勝の居城・春日山(新潟県上越市)に在住していたと思われる。

ところが、昌幸が上杉との関係を解消し、天下人・豊臣(羽柴)秀吉に直接したがうこととなったため、信繁はやはり人質となって上方に送られる。ここでも家臣として遇され、二万石弱の所領を得た。この時代の信繁について目立った記録はないが、大谷吉継の娘をめとったこと、のち彼の通称として周知される左衛門佐に任じられたこと、朝鮮出兵に際して秀吉に同行し、肥前名護屋(佐賀県唐津市)へおもむいたことなどが確認されている。

天下分け目の選択

秀吉の死後、天下は徳川家康方と石田三成方に割れ、関ヶ原の戦が迫ってきた。家康は三成と通じる上杉景勝討伐に向かい、信繁たちも従軍していたものの、三成挙兵の報に接し、真田家はふたつに分かれてしまう。父・昌幸と信繁が石田方、兄の信之(当時は信幸)は徳川方を選んだのだった。犬伏(栃木県佐野市)の別れといわれる名場面だが、じっさいにこの三人がどのようなことを語り合ったか、さらにいえば三者会談が確実にあったかどうかも定かではない。

昌幸は所領をめぐる紛争から徳川方と矛をまじえて撃退したことがあり(1585年。第一次上田合戦)、娘を三成の義弟に嫁がせてもいる。信繁の岳父・大谷吉継は三成の盟友だった。いっぽう信之は家康の股肱・本多忠勝の娘をめとっている。こうした縁故がすべてではないにせよ、三者の選択はごく自然なものと思える。そして、このときこそが、「真田幸村伝説」のはじまりとなった。

真田信繁(幸村)~戦国の最後をかざる名将(後編)はこちら 

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、『霜月記』、『藩邸差配役日日控』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、『読んで旅する鎌倉時代』、『どうした、家康』などがある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。

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