文/砂原浩太朗(小説家)

鶴岡八幡宮

北条政子~情熱と孤愁の尼将軍(前編) はこちら

政治の表舞台へ

夫・源頼朝を亡くした同年、政子は次女をも病で失う。残されたのは長男・頼家(18歳)と次男・実朝(8歳)の男子ふたり。彼女自身は43歳だった。

跡を継いだ頼家はまだ若く、政子が政治の表舞台に登場する。まずは、実家の北条氏をはじめとする有力御家人ら13人による合議体制を布いた。むろん、父・時政や弟・義時と相談の上で始めたことに違いない。夫の残した幕府を懸命に守ろうとしたのだろう。

が、息子である頼家にとって、新しい体制が満足のいくものでなかったことも確かである。その不満もあるのか、舅である比企能員(よしかず)らお気に入りの5人を重んじ、他の者とは会おうとさえしなくなった。のみならず、御家人から妾を奪い、蹴鞠に熱をあげるなどの行為に耽ったという。よくある暗君的行状だが、われわれが参照できる史料は幕府の公式記録である「吾妻鏡」など北条氏寄りのものが多い。誇張がありうるということも念頭に置くべきだろう。

政子は頼家暗殺に関わったか

1203(建仁3)年、頼家は病にかかり、命さえ危ぶまれる容態になった。跡目の儀が相談され、弟の実朝が候補に挙げられる。前述の比企能員は危機感をいだき北条討伐を企てたが、いちはやく察した政子が実家に知らせたため、討ち取られてしまう。

頼家は病から回復したものの、後ろ盾となる舅をうしない、将軍位は弟にゆずらざるを得なかった。翌年、幽閉先の修禅寺で没したのは北条氏の命による暗殺と見られているが、古来、政子がこの件に関わったかどうかが議論の的となっている。

これも本能寺の変や松の廊下とおなじく証しのない話で、結局は解釈の問題になるが、筆者は政子が息子の暗殺を許したとは思っていない。彼女の生涯を通観すると、よくもわるくも情愛の濃い女性だったと感じる。むろん可愛さ余ってということもありうるが、生涯かけて愛した夫とのあいだにさずかった子をむざむざ殺すだろうか。将軍職は務まらぬと判断したかもしれないが、辞職させ幽閉すれば事足れりと考えるのが自然である。

頼家が死んだ翌年、父・時政は後妻にそそのかされ、実朝の廃立をたくらむ。陰謀は事前に露見し時政は退隠させられるのだが、この措置に頼家を暗殺したことへの科が含まれるという見方もできるのではなかろうか。

鶴岡八幡宮の悲劇

3代将軍となった実朝は歌人として知られるように、細やかな心ばえと聡明さを合わせ持った人物だったらしい。が、頑健とはいいがたく、しばしば病に見舞われている。貴族文化へのあこがれも強く、そのためもあってか後鳥羽上皇(1180~1239)のいとこにあたる坊門氏を妻とした。ちなみに、実朝という名も上皇からたまわったものである。

夫婦の仲は良好だったようだが、残念ながら子はさずからず、側室も置こうとしなかったため、誰を跡継ぎにするかが懸案となった。ついに後鳥羽上皇の子をつぎの将軍に迎えるという案が浮上し、その運動をかねて政子が上洛したこともある。このとき上皇から対面の申し出があったものの、「田舎の老尼でございますから、お目にかかるほどのものではございません」といって断っている。朝廷に取りこまれることを避けたとも考えられるが、彼女生来の素朴さを感じるのは、筆者だけではあるまい。

いっぽう、朝廷のおぼえめでたい実朝の官位は矢継ぎ早にあがり、1218(建保6)年の末には右大臣に任じられている。翌年1月、この任官を祝して鶴岡八幡宮へ拝賀に赴いた彼を凶刃が襲った。下手人は、頼家の子・公暁。実朝の猶子となり、八幡宮の別当をつとめる人物だった。

実朝暗殺の黒幕は?

凶行後、時をおかず公暁が討ち取られてしまったから、変の詳細は不明のままである。そのため、さまざまな陰謀説がささやかれることとなった。

黒幕と見なされる人物は主にふたり。政子の弟たる執権・北条義時と、有力御家人の三浦義村である。義時は拝賀の途中で急病のため帰宅したという記録があり、事前に公暁の計画を知っていたのではないかとされる。また三浦義村は妻が公暁の乳母をつとめていた上、みずからの子も八幡宮で公暁に仕えていた。実行犯ときわめて近しい存在であることは間違いない。

が、両者ともに、つよい動機は見出しにくい。実朝と上皇の親密さに危機感をいだいたという見方もあるが、義時は変後も上皇の子を将軍に迎えようとしているし、三浦義村は叛く機会が幾度かあったにもかかわらず、終始北条と足並みを合わせている。いずれあらたな見解が示されるかもしれないが、近年は公暁の単独犯行説が勢いを増しているようだ。

尼将軍政子

すべての子に先立たれた政子の胸中は、想像するに余りある。悲痛ということばさえ足りないだろう。が、彼女はみずからの痛みに沈み切ることをしない。実朝没して2年後、後鳥羽上皇は幕府と兵をかまえる。名高い承久の乱だが、このとき政子が頼朝の恩を説いて御家人たちを奮い立たせたことはよく知られている。「ご恩をわすれて都方につくか、留まって味方となるか、いまここではっきりと申し述べよ」「京都につくものは、まずこの尼を殺してから行きなされ」とのことばは脚色もあるにせよ、今われわれが見ても胸にせまる。このいくさが鎌倉方の勝利に終わったのは、周知のことだろう。

4代将軍には、摂関家から九条頼経が迎えられた。あまり知られていないことだが、頼朝から見れば、妹の曾孫にあたる。か細いながら、血縁のある人物だった。とはいえ鎌倉に下向した折はわずか2歳だから、政子がかたわらにあって補佐の役を務めることとなる。この頃から、誰いうとなく尼将軍と呼ばれるようになった。

その死は1225(嘉禄元)年、69歳のときにおとずれる。前年には弟・義時まで没しているが、政子は実家の家督争いを未然にふせぎ、名執権として知られる泰時を後継者とした。最後の最後まで鎌倉幕府を守り抜いた一生だったといえるだろう。なまはんかな覚悟でできることではない。彼女の生涯を振りかえったいま、みごとに命を使い切った女性という感を抱いている。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。

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