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文/砂原浩太朗(小説家)

前田慶次(まえだ・けいじ)――加賀百万石の藩祖・前田利家の甥にして、戦国随一の傾奇者(かぶきもの)として知られる武士。豊臣秀吉から「生涯傾奇ご免」(しょうがいかぶきごめん)のゆるしを得たとか、叔父・利家を水風呂に入れようと悪戯をたくらんだとか、自由奔放な性格をうかがわせるエピソードには事欠かない。

が、その実像はかぎりなく不明である。名のみ知られたこの男、果たしてどのような生涯を送ったのか。

歌川芳幾筆『太平記拾遺』より前田慶次郎利丈像

実父すら確定できず

最初に述べておきたいのは、慶次について確かな史実がほとんどないということである。通称は慶次郎、宗兵衛とも伝えられ、諱(いみな。正式な名)も利太、利卓、利益、利治、利貞と一定しない。諸説あり、というわけだが、晩年には出家して、穀蔵院ひょっと斎などというユーモラスな名を用いた人物である。気分によって改名を繰りかえした可能性もあるように思われる。

生没年も不詳。ときどき天文2(1533)年生と書かれた本を見かけるが、これは「考拠摘録」という史料に「慶長十年(1605)……享年七十三にて卒したまへり」とあるところから逆算したもの。事実なら、叔父の利家より四、五歳上ということになるが、この記録自体、かなり後の承応元(1652)年に書かれたものだし、終焉の地を大和(奈良県)とするなど、他の書で裏づけられない記述が多すぎる。やはり、生没年は不明とするしかないのである。

つぎに実父だが、滝川儀太夫益氏という説が有力。この人物は織田信長配下の武将・滝川一益の甥だとされる。一益本人が慶次の父という説も根強いが、良質な史料はたいてい儀太夫説をとっているし、もし本当に一益が父なら異説の出る余地は少ないだろう。おなじ滝川の出なら、著名な一益が父であったほうが面白い、という小説家風の判断を感じるのは、筆者だけであろうか。

家督騒動の裏側

前田家の家督は、はじめ利家の長兄・利久が継いでいたが、男子に恵まれなかった。利久の妻が儀太夫益氏の妹(これも儀太夫実父説の傍証となる)という縁で、甥の慶次を養子に迎え、前田の家督を継がせようとする。永禄12(1569)年のことである。

これに異を唱えたのが、主君・織田信長だった。利久の願いをしりぞけ、みずからの側近である利家に前田の家督を譲るよう命じたのだ。

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