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西郷隆盛と3人の妻たち【にっぽん歴史夜話10】

文/砂原浩太朗(小説家)

西郷隆盛と3人の妻たち

西郷隆盛(1827~77)の名を知らない日本人は、まずいないだろう。歴史上の人物中でもトップクラスの人気と言っていい。が、その業績にくらべると、家庭人としての西郷には、ようやく関心があつまりはじめたところだと思われる。彼に3人の妻がいたという事実も、歴史にくわしい人をのぞけば、まだまだ知られているとは言いがたい。本稿では、それら女性たちとのかかわりを通じて、不世出の英雄・西郷隆盛の素顔をさぐってみたい。

謎多き第一の妻

西郷は文政10(1827)年、鹿児島城下で薩摩藩士の子として生まれた。家格がひくい上に弟妹も多く、生活は極貧と呼ぶべきありさまだったという。最初の結婚は、嘉永5(1852)年というから、ペリー来航の前年である。相手は、藩主島津氏にもつながるとされる名門・伊集院家の娘で、名は須賀。このとき西郷は26歳、花嫁は21歳だった。結婚した月は不明だが、じつはこの年、西郷は9月に父を、11月に母を相ついで亡くしている。身内に不幸があれば婚礼を先延ばしするのがふつうだから、少なくとも9月以前の結婚と考えていい。

ここで不思議なのは、なぜ格上の伊集院家から嫁取りができたのか、ということである。西郷が藩主・島津斉彬(なりあきら。1809~58)から取りたてられるのは、2年後の安政元(1854)年だから、この時点では単なる貧乏藩士にすぎないのだ。とはいえ、結婚の前年に斉彬が藩主の地位に就いたことはやはり見逃せない。その襲封にあたっては、異母弟・久光をかつぐ一派とのあいだに凄絶なお家騒動があった。西郷は斉彬派と親しかったから、新しい治世のはじまりにあたって、周囲から有望な青年と見られていたのではないだろうか。

が、この結婚は短かった。前述どおり安政元年、西郷は斉彬に見いだされ、参勤交代の供をして江戸へ赴くことになる。これと前後して、伊集院家から申し出があり、須賀は実家へ戻ってしまうのだ。実質2年に満たない結婚生活だった。名門出身の須賀が、西郷家の貧しさに耐えかねたのではないかとも想像されるが、くわしい事情は伝えられていない。

須賀のその後もまったく分かっておらず、これも若干いぶかしいことではある。弟の伊集院兼寛は、維新後、子爵・貴族院議員になっている。それほどの人物の姉が消息不明というのも、ありえない話ではないものの、やはり不審がのこる。想像でしかないが、西郷との離別後、ほどなく世を去ったか、名をあらため再婚したため、わざと消息を明らかにしなかったというようなことが考えられるのではないか。いずれにせよ、あらたな史料でも出現しないかぎり、この謎にはまだまだ答えが出そうにない。

島妻・愛加那との別離

賢君として名高い斉彬のそば近く仕え、前途洋々と思われた西郷だが、はやくも安政5(1858)年には主君が病死してしまう。甥の忠義が次の藩主となるが、実権を握ったのは、その父・久光だった。斉彬と藩主の座をあらそった人物である。後ろ盾を失った西郷は流島を命ぜられ、翌安政6年、奄美大島へおもむく。

これはしばしば誤解されているような流罪ではなく、政治的な潜伏というのが正しい(ただし、のち久光の怒りを買い、べつの島へ流罪に処されている)。それでも、斉彬を失った西郷が精神的に追い詰められていたことは間違いないだろう。が、彼はこの地で愛加那(あいかな)という女性を島刀自(しまとじ=現地妻)とし、子にも恵まれるのである。

愛加那は島役人をつとめる龍氏の娘で、西郷より10歳下の23歳だった。夫婦仲は人目もはばからぬほど睦まじかったという。一面、派手なけんかも伝えられているから、いかにも南国育ちらしく、感情の起伏が激しい女性だったのだろう。
しかし、この生活も長くは続かなかった。結婚後2年にして西郷に帰藩の令が下ったのだ。島刀自は現地のみの関係と定められており、ふたりに別離以外の道はなかった。愛加那はその後も奄美大島を離れることなく、明治35(1902)年、66歳で世を去る。

ちなみに、西郷と愛加那の間に生まれた息子・菊次郎は、のち鹿児島に渡って父にしたがい西南戦争に従軍することとなる。その際、右足を膝下から切断する大怪我を負ったが生き残り、台湾総督府などで勤務したあと、京都市長として数々の功績を残した。

「こげんお人じゃなかった」と口ばしった糸夫人

西郷が三度目の結婚をしたのは、慶応元(1865)年、39歳のときである。相手は、家老付きの書記をつとめる岩山八郎太の次女・糸で、16歳年下だった。このころ、西郷はすでに薩摩志士の中心人物として、他藩にまで知られる存在となっている。国事に奔走する身として、後顧のうれいなく家を任せられる女性が必要だったのだろう。

事実、糸は留守がちな夫にかわって全力で西郷家をささえる。かの坂本龍馬も糸に信頼を寄せ、彼女なら妻・お龍(りょう)の身を託せると書簡のなかで述べているのだ。維新後も、西郷の弟・吉二郎の遺族や奄美から呼びよせた菊次郎と妹・菊子、自らの生んだ子どもたちなどから成る大家族を守りぬいた。西郷も齢のはなれた妻を慈しんでいたようで、結婚生活を通じて叱られたことはほぼないと糸自身が語っている。最後に夫と顔を合わせたのは、西郷が西南戦争に出陣する明治10(1877)年2月。7か月後、西郷は城山で命を終えるが、その10日前に夫の居所を知った糸は、激戦のなかを縫って、衣類などを届けさせたという。

そして、よく知られたエピソードだが、はるか後の明治31(1898)年、西郷の復権もすでに成り、上野で銅像の除幕式が催されたときのことである。糸は夫の像を見て、「こげんお人じゃなかった」と口ばしったのだ。これが原因で西郷の容貌をめぐる論争が現在までつづいているのだが、ここには誤解があった。糸は「こげん顔じゃなかった」とは言っていないのである。彼女の知る西郷は、だれに対しても謹厳・丁重で、上野の像のようにくつろいだ姿で人前に出る男ではなかったというのが真意だとされている。現在の視点から見ればラフな西郷も魅力的だが、英雄の妻として生きた糸には、ゆずれない部分があったのだろう。彼女は大正11(1922)年、東京で数え80歳の天寿をまっとうした。

3人の妻たちは、それぞれ違う時期とかたちで西郷隆盛と人生をともにした。おそらく彼自身、女たちに見せていた顔は少しずつ異なるものだったろう。志士としての公的な生涯からでは決して見えてこない、奥ゆきある人間像が女性たちとの生活を通してうかがえるように思うのである。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

『いのちがけ 加賀百万石の礎』(砂原浩太朗著、講談社)

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