文/砂原浩太朗(小説家)
上杉謙信~もうひとりの「戦国最強」(前編) はこちら
謙信、越後を去らんとす
1556(弘治2)年、越後(新潟県)国主の座を捨てようと決意した上杉謙信(当時は長尾景虎)は、少年のころから親しんだ僧・天室光育(前編参照)に宛て、2000字にもおよぶ長文の手紙をしたためる。父祖の功績や四隣の状況を述べたあと、次のような心もちを吐露した。「わたしは家督相続以来、懸命に励んで国は豊かとなりましたが、家臣たちは勝手放題で従おうといたしません。この地を捨て、遠くへ行こうと思います」
このとき謙信は27歳。若者らしいナイーブさと取るか、一国のあるじとも思えぬ無責任と取るかは人それぞれだが、筆者自身はこの文章に打たれたことを告白しておく。たしかに子どもっぽいともいえるが、これほど剝き出しの苦悩を訴えた武将というのも、まずない。それでいて、いくさ場での勇猛は人も知るところである。なるほど、これが古来、数多の人が彼に惹きつけられた所以かと、今さらながら腑に落ちる思いだった。
家臣たちも、このような展開は予想だにしていなかったろう。姉婿にあたる長尾政景(謙信の後継者となった上杉景勝の実父)が代表となって交渉したらしく、謙信は国主の座に戻ることとなった。家中の結束はかたまったが、そこまで狙っての行為と捉えるのは結果論にすぎないだろう。これ幸いと、一門の者が越後の支配を目論むこととてあり得た。やはり青年謙信の若気と見るべきである。
生涯不犯はほんとうか
ここで一度時間の進行をとめ、彼の身辺に筆をおよぼしてみたい。謙信といえば、生涯不犯(女性に接しない)をつらぬいたとされる。実子がいないのは事実だが、近年の研究では、30歳ごろの謙信に妻がいたと推測される史料も発見されている。ただし決定的といえるものではなく、現在のところは若いころ妻がいた可能性もあるというに過ぎない。
また、毘沙門天への傾倒が有名だが、むしろ仏教全般に深く帰依していたというのが実像に近い。出家するのは45歳のときだが、それ以前から名僧知識と交流をかさね、教えを受けることもしばしばだった。ちなみに、「謙信」の名は1570(元亀元)年ごろから用いられるが、天室光育のあと林泉寺の住職となった益翁宗謙から一文字もらったものである。
川中島最大の激戦
出奔騒動ののち、川中島第3回戦(1557)を経ても、信玄との決着はつかなかった。上杉憲政を擁した謙信の主戦場はしだいに関東へ移り、1561(永禄4)年には、北条氏の本拠・小田原城を包囲する。だが、陥落させることはかなわず、帰路、鎌倉で憲政から上杉の家督と関東管領の職をゆずられた。同時に名も景虎から政虎へとあらためたが、同年のうちに将軍・足利義輝から一字をたまわり、輝虎となる。が、本稿では、引きつづき謙信で統一することをお断りしておく。
謙信が上杉姓を継いだ1561年は、川中島を舞台に武田との激戦(第4回戦)が行われた年でもある。謙信と信玄は5回にわたってこの地で対峙しているが、一般に「川中島の戦い」としてイメージされるのは、この折のこと。信玄は軍を二手に分け、一隊が妻女山(長野市)に陣取る上杉軍を襲い、逃れてきた敵勢をみずからひきいる本隊が撃滅しようとした。
が、謙信はこの策を見抜き、裏を掻く。夜中ひそかに山をくだり、夜明けを期して待ち伏せしていた信玄隊に攻めかかったのである。謙信が単騎で敵陣に突入し、信玄に斬りかかったとされるのは、このときのことだが、軍学書「甲陽軍鑑」にある話で、史実と見なすにはやや根拠に欠ける。謙信と親交のあった関白・近衛前久が、書状に「自身太刀打に及ばる段……天下の名誉に候」と記したのを根拠にする人がいるが、言うまでもなく、みずから太刀を振るうことと敵の大将に斬りつけることは同一でないだろう。
とはいえ、信玄の弟・信繁が戦死するほどの激戦である。情況を見れば無下にしりぞけることもできない。「上杉年譜」という史料には、荒川伊豆守という武将が信玄に斬りつけた旨が記されており、これが謙信の所業と伝えられた可能性もある。
さて信玄隊を追いつめた謙信だが、妻女山に向かった一隊が駆けつけ、撤退を余儀なくされる。このいくさの勝敗は解釈の分かれるところだが、戦後、それまで謙信の勢力下にあった土地を、信玄が配下の将に分け与えている。すくなくとも、政治的な見地からすれば武田方の勝ちとするのが公平なところではなかろうか。
謙信は敵に塩を送ったか
謙信と信玄は1564(永禄7)年に今いちど川中島で対峙しているが(第5回戦)、60日の対陣を経て、はかばかしい成果もなく帰国した。「敵に塩を送る」という有名なエピソードは、これ以降のこと。今川と北条が山国である甲斐へ塩が入らないようにしたところ、謙信は「弓矢でたたかうことこそ、わが本分である」として、信玄に塩を送ったという話である。謙信の義将ぶりを象徴するエピソードだが、これは、「塩の輸出を止めようとはしなかった」というあたりが真相らしい。
いずれにせよ、以後、正面きった両雄の対決はなく、謙信は武田を牽制するため北条と同盟をむすぶ。当主・氏政の弟を養子とし、景虎の名をあたえた。北条はほどなく武田とむすび上杉と断交したが、景虎はそののちも手元に置かれる。謙信の死後には、甥である景勝と後継者あらそいを演じることとなった。
謙信は川中島以後も関東や越中(富山県)に出兵を繰りかえした。結果として上杉の勢力は拡大したが、彼自身に領土欲や天下への野心が希薄だったためか、傘下にある将からの要請や四隣の状況に応じて、戦さのための戦さを重ねたように見えるのも事実。1577(天正5)年には手取川(石川県白山市)の戦いで、織田軍を蹴散らしている。この4年まえに没した信玄ともども、「三英傑」に畏れられた存在だった。
が、象徴的なことに、これが最後の戦さとなる。翌1578(天正6)年、謙信は春日山城内にて急逝。49歳だった。死因は脳卒中と見られている。
川中島戦のはじまる直前、信濃から逐われた村上義清が、若き謙信に目通りした。信玄の用兵について尋ねられた義清がこたえる。「かの者は、勝ったのち、戦さのまえより用心深くなる男でございます」。これに対して謙信が曰く。「彼奴は国を取るために戦さをしておるのだろう。わしにとっては、目のまえの一戦に後れを取らぬことこそ肝要なのだ」。あくまで領土を広げるために戦さをおこなう政治家・信玄と、戦いそのものに魂を賭ける武人・謙信というところだろうか。両雄の差違をあらわした逸話として印象深いものであるから、とくに記しておく。
また、信玄はその死に際し、後継者となる勝頼にこう言い残したとされる。「わが死後は謙信を頼れ。当今、並ぶものなき義人である」
むろん、完全な義人などというものがいるはずはない。謙信も仁慈にあふれた名君というわけではなく、敵方の城下を焼き払い、老若男女を皆殺しにしてもいる。信玄とて、むろん、そうしたことは分かっているだろう。
それでも謙信が、彼なりの美意識で生涯をつらぬこうとしたことは確かである。信玄もそれを感じていたのだろう。乱世にあって稀有な存在、という評は間違っていないと思えるのである。
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。
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