文/砂原浩太朗(小説家)

水戸 偕楽園

徳川慶喜(1837~1913)は、一筋縄でゆかぬ人物である。最後の将軍として名はよく知られているものの、歴史的な評価はいまだ定まっていない。江戸を戦火から救った果断の英主とたたえる人もいれば、優柔不断な貴公子と断ずる向きもある。一般的なイメージとなるとさらにあやふやで、多くはドラマや映画で彼を演じた俳優のものでしかないだろう。源頼朝以来、700年にわたる武家政治へ幕をおろした慶喜とは、いったいどのような男だったのか。

「聡明な若君」伝説の出どころは?

慶喜は水戸9代藩主・徳川斉昭(1800~60)の子として生を享けた。幼名は七郎麿といい、名まえのとおり7男である。水戸家はいわずと知れた徳川御三家のひとつだが、それでいて代々尊皇の家柄。とくに斉昭の皇室賛美は熱烈で、実現はしなかったものの、慶喜の妻に皇女をむかえようと目論んだほどだった。また、正室(慶喜の生母)も宮家の出だから、彼が両親から勤皇精神を刷り込まれたことは、容易に想像できる。

7男であるから、本来なら日の目を見る立場ではなかったはずだが、幼少期から聡明との評判が高く、11歳のとき、12代将軍家慶のお声がかりで徳川御三卿のひとつ一橋家を継ぐ。御三卿とは、8代吉宗の血を引く一門で、将軍にもしものことがあったときは、後継者たる資格を有していた。なかでも一橋家は11代家斉を出しているから、家慶からすれば父の実家ということになる。その家を継ぐよう指名されたのだから、慶喜への期待がどれほど大きかったか分かるだろう。

ところが、あらためて調べてみると、慶喜がなにゆえそれほどの評価を受けていたのかがはっきりしない。こうした場合よくあるのは、おさなくして儒学の根幹たる四書五経(「論語」「孟子」など)をそらんじていたという類の話だろうが、そもそも彼は読書を嫌っていた。斉昭から座敷牢に入れられ、食事さえ供されなくなってから、しかたなく学問へはげむようになったという。また、武芸は好んでいたが、この方面でめざましい逸話があるわけでもない。馬術は大名芸の域を越えていたらしいが、それだから天下の逸材ということにもならないだろう。

慶喜が聡明でなかったというつもりは毛頭ない。彼の生涯を振りかえると、むしろその聡明さこそが足かせとなったようにも感じられるほどだが、すくなくとも少年時代においては、高すぎる世評の根拠があいまいだと思えるのだ。

目につくものといえば、父・斉昭がのこした子どもたちへの評価。「柔和すぎる」など厳しい視線を注がれる者もあるなか、慶喜には「あっぱれ名将の器」との賛辞が寄せられている。おそらく豪胆さを感じさせる少年だったのではないか。前述した読書嫌いの話にしても、当初は罰として灸を据えられていたところ、「本を読むよりはまし」とうそぶき堪えていたという。かなりの強情者であることは間違いない。

斉昭は過激な性向を持つ人物で、慶喜が床へつく際は、寝相を矯正するため枕の両側に剃刀の刃を立てさせたと伝わる。君主たるもの、眠るときも心をゆるめてはならぬというわけだが、こうした父ゆえに、慶喜の強情さが頼もしく見えた可能性もあるだろう。

筆者は斉昭がわが子の資質に注目し、ことあるごとに幕閣や諸侯へ吹聴したのではないかと想像する。また、慶喜は将軍家慶にも可愛がられたようだから、何かしら年長者の心をくすぐるタイプの子どもだったことは確かである。

将軍位をのぞまず?

その家慶は、1853(嘉永6)年、ペリーが来航し、国中が騒然となるなか世を去った。13代将軍となった世子・家定は病弱で子もなく、はやくも跡継ぎの座をめぐって幕閣内は騒然となる。声望高い慶喜が候補となるのは自明のことだった。このとき彼を推したなかには、薩摩藩主・島津斉彬や越前藩主・松平慶永(のち春嶽)、宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)に土佐藩主・山内豊信(とよしげ。のち容堂)など、賢侯として名高い人物がそろっている。

が、5年におよぶ角逐をへて選ばれたのは、紀州藩主の徳川慶福(よしとみ。のち家茂。1846~66)。理由はいくつかあるが、彼が将軍家定のいとこにあたり、血統的に近かったことがまず大きい。あとは慶喜の父・斉昭が幕閣から嫌われていたこと。極端な攘夷(外国を打ち払う)主義者だった斉昭は、開国へと傾く幕政を繰りかえし批判しており、当然のごとく疎まれる存在だった。

とはいえ、なかでも決定的だったのは、将軍家定が慶喜を好まなかった点だろう。その心中は想像するしかないが、周囲の目すべてがおのれの資質に疑問を投げかけ、英明と評判の人物を跡継ぎにといわれれば、面白からざる思いを抱くのは当然である。後継者選びがしばしば個人的感情に左右されるのは、いつの時代もかわらない。

父・斉昭をはじめとする支持者はさぞ落胆しただろうが、慶喜本人の胸中はつかみがたい。後継者運動がはじまった当初、17歳の彼は以下のような言を残している。「天下を取り候ほど気骨の折れ候事はこれなく候」、つまり「天下を取るほど気の重いことはございません」というのだ。これは、父・斉昭に送った書状の一節だが、「気が重いから嫌というわけではございませんが、天下を取った後しくじるよりは、取らない方がよほどよいと存じます」とつづく。

まるで「悟り世代」とでも呼びたくなるような発言で、斉昭の怒りないし失望が目に浮かぶようだが、これをもって慶喜を「不甲斐ない」とか「覇気がない」と決めつけるのは早計だろう。17歳といえば、現代では親のすることに文句のひとつも言いたくなる年齢であるし、明敏な彼は、徳川の世がすでに行き詰っていると見て取ったのかもしれない。

【大獄からの復活~将軍後見職へ。次ページに続きます】

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