文/後藤雅洋
ジュリー・ロンドンの歌声を聴いていると、「歌」というものの効用のたしかさをあらためて実感するのです。「効用」という言い方が即物的なら、その効果である「幸福感」と言い直してもいいでしょう。彼女の歌声を聴いていると、取り立てて理由はなくとも、そこはかとない幸せ気分に浸れるのですね。ジュリーの歌声には、なんともいえない「ハッピー物質」が含まれているとしか思えないのです。
ジュリー・ロンドンの一般的イメージは「セクシー・ダイナマイト」でしょう。これは本人も、また周囲の音楽関係者も自覚していて、典型的「容姿端麗、白人金髪美人」を全面的にアピールする見事なジャケット写真で攻めています(第25号「ジュリー・ロンドン」の「GNOSIS」「歌を見る」参照)。しかしです、その攻略対象たる私を含めた男性陣は、それほど「単細胞」ではありません。もちろん発端に「視覚効果」があったことは否めません。しかしたとえばアイドル・グループのAKB48やら欅坂46を「応援」する方のように、「その意志」が長期にわたって持続するほど、私たちジャズ・ファンは「真面目」ではないのです。
率直に言って、ジャズ・ファンは思いのほか浮気性なのです。その理由は明快で、「歌そのもの」をじっくり聴き込む傾向が強いからでしょう。そうすると、いやでも「批評家気分」が入り込んできて、「誰それが一番」とはなりにくいのですね。難しい言い方をすると「客観的視点」が紛れ込んでくるのです。たとえば、「声はいいけどフレージングが……」とか、「歌う素材が合っていない」とか……。
結果としていろいろな歌い手を物色し、「声はA嬢」、「歌唱テクニックはB姉御」といった具合に、素人批評家気分とファン気質が、本人も自覚しないところで同居しているのですね。つまり、ジュリーしか聴いたことのないジャズ・ファンなどごく少数派なのです。大方のジュリー・ファンは「エラ、サラ、カーメン」と並び称された黒人大物女性歌手たち、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、そしてカーメン・マクレエなどはひと通り小耳に挟み、「ケントン・ガールズ」と呼ばれたスタン・ケントン楽団の白人女性歌手たち、アニタ・オデイ、ジューン・クリスティ、クリス・コナーなどと比較したうえでのジュリー・ファンなのですね。
そしてそれ以上に興味深いのは、こうした「比較軸」をもった「ファン気質」が、思いのほかジュリー・ロンドンというヴォーカリストの本質、ひいてはジャズ・ヴォーカルというものの実態の「洞察」にまで至っていたりするのです。そこで話は冒頭に戻ります。ジュリーの歌声が醸しだす「ハッピー物質」の正体探求です。話の展開に沿って黒人、白人それぞれの女性ビッグ・ネーム歌手たちとの比較でジュリーの魅力・持ち味の正体に迫ってみることといたしましょう。
「誘惑しない」誘惑
まずはエラです。彼女の特徴はお得意のスキャットを挟み込んだダイナミックな歌唱ですが、そもそも女優さん上がりのジュリーはスキャットをほとんどやらないので、比較のしようがありません。
次いでサラです。彼女もドスの効いた重量感のある黒人特有の声質から繰り出されるスキャットが得意ですが、ジュリーは白人ならではの軽快な声が持ち味なので、こちらもあまり比べる意味がありません。
ここまででわかることは、代表的黒人女性ヴォーカリストたちとは対照的なスタンスにジュリーが立っているということでしょう。これを裏返せば、ジュリーはある意味で典型的な白人女性ジャズ・ヴォーカリストであるといえるのですね。まずは重要なジュリーの特徴がひとつ見つかりました。
さて、それではカーメンです。カーメンは超カリスマ・ヴォーカリスト、ビリー・ホリデイと親しかったということもあるのですが、ホリデイと同じようにあまりスキャットをやりません。また、ラテンの血を引く彼女はなかなか美形で、一度結婚して家庭に戻ったりした経歴も、ジュリーと似ているといえるでしょう。たしかに、歌をしっかり聴かせるという点ではジュリーとカーメンは同じタイプといえるのですね。
しかし決定的な違いがあるのです。第14号「カーメン・マクレエ」をお聴きただければわかると思うのですが、カーメンはしっとりとした歌声で、聴き手の気持ちを「カーメン自身」へと惹き込んでいるのですね。これは自己表現を旨とするジャズ・ヴォーカリストとしては当然の行き方といえるでしょう。
そこでジュリーの歌唱です。セクシー・イメージのせいで、彼女もまた独特の「スモーキー・ヴォイス」=煙ったような掠れ声で単細胞男性どもを「誘惑」しているという思い込みが強いのですが、虚心坦懐に聴いてみると、必ずしもそうとばかりはいえないのですね。楽曲にもよるのですが、ジュリーの歌声は聴き手の気持ちを自分の世界に誘うだけでなく、言い方はおかしいのですが、「歌」をポンとどこかへ放り出すような気配があるのです。
「放り出す」はもちろん言葉の綾で、ある種の気分、雰囲気へと聴き手の気持ちを巧みに「誘導」しているのです。言ってみればカーメンが惹きつけ型なら、ジュリーの歌には放擲の面がある。これがたいへんに面白い。説明すると、それがジャズ・ヴォーカルの重要な特徴でもあるのですが、強い自己表現は聴き手の心を歌い手に惹きつける半面、ちょっと気持ちの自由度、想像力の範囲が限定されてしまうのです。聴き手の関心が歌い手の人物像に収斂しちゃうのですね。
ジュリーはあたかも「私の歌を聴いて幸せになってくれればそれでいいのよ」とばかり、歌声を通して私たちの気持ちを歌が描き出すユートピア的境地へと誘ってくれているのです。彼女は思いのほか自分自身への執着が薄い。思うにこの気がつきにくいジュリーの資質が、聴いているとその理由は判然とせずとも幸せ感に満ちてくる、「ハッピー物質」の一要因ではないでしょうか。
今回収録した楽曲でいえば、「草競馬」や「故郷の人々」といった、ほのぼの系楽曲にその傾向が見られますね。そしてもちろん他の楽曲にも大なり小なり、ゆったりと歌だけが味わわせてくれるドリーミーな境地へと聴き手を誘う、「ハッピー物質」が隠し味的にまぶされているのです。
ジュリーの勝負どころ
かなりジュリーの知られざる魅力の一端が見えてきましたが、もうひと息です。残るケントン・ガールズとの比較で、より精密にジュリーの独自性に迫ってみましょう。
まずはアニタ(第12号「アニタ・オデイ」参照)です。彼女は典型的なテクニシャンで、スキャットはもちろん、メロディを「お、大丈夫かよ」と聴き手を心配させるほど「崩し」てしまいながら、ちゃんと元の路線に戻せるハイ・テクニックの持ち主。同じ白人女性ヴォーカリストでハスキー・ヴォイスも同じながら、あまりテクニックを誇示しないジュリーは、スタイル自体アニタとは対照的。これも比較の対象とはなりにくいですね。
しかし、見えてくるものもあります。アニタが歌唱テクニックを通して自己表現するタイプだとしたら、ジュリーは「人柄」といってしまっては単純すぎるのですが、歌から漂い出すキャラクター自体で勝負しているのです。
じつをいうと、ヴォーカルだけではなく、インスト(器楽)演奏も含め、ジャズ・ファンは演奏が醸しだす気分や雰囲気といった漠然とした気配からミュージシャンのキャラクターを読み取り、それに対して愛着を抱く傾向が思いのほか強いのですね。これを「音楽自体を聴いていないじゃないか」と非難するのは間違いで、それぞれのミュージシャンの微妙な表情の差異などは、ちゃんと演奏を聴いていないと聴き分けられないのですね。そういう意味では、ジュリーはまさにジャズ・ファン好みの歌手なのです。
次はジューン(第21号「ジューン・クリスティ」参照)です。彼女もハスキー・ヴォイスで鳴らしたケントン・ガールズですが、ジュリーとは一聴して違いがわかりますね。ジューンのハスキー・ヴォイスは、意外とクリアなのです。ですから歌の印象も明快です。他方、ジュリーは彼女の代名詞ともなった「スモーキー・ヴォイス」のため、歌の世界の「見通し」はけっしてよくありません。まさに霞がかかっているのですね。そしてそれこそがジュリーの持ち味で、一種のミステリアスな風情を醸しだしているのです。
最後の比較対象はクリス(第39号「ビッグ・バンド・ジャズ・ヴォーカル」に収録)です。メロディに忠実に歌うところやハスキー・ヴォイスもジュリーと同じですが、彼女の歌もカーメンと同じで、自分の世界に惹きよせるタイプ。もちろんそれがジャズ・ヴォーカルの王道なのですが、ジュリーの場合は、惹きよせる「自分の世界」の中身が微妙に違うのですね。
決定的にジュリーが上手いと思うのは、個人キャラ+状況設定の巧みさなのです。「状況設定能力」とは、あるときはセクシー・アイドルであり、あるときは親しみやすい隣のお姉さん、そしてまたときによっては素朴なカントリー・ガールにもなれる複合キャラの魅力なのです。このあたりは女優ならではの特技です。いちばんわかりやすいのは今回収録した「アイ・リメンバー・ユー」などで示す「貫禄姉御キャラ」と、先ほどの「草競馬」などに見られる「健康カントリー・ガール・キャラ」の使い分けですね。このジュリーの歌に対する柔軟な姿勢が重要なのです。
結論です。ジュリー・ロンドンが名だたる大物ジャズ・ヴォーカリストたちと比較されつつ、独自のファンを獲得している理由は、逆説的ですが、思いのほか彼女は自己執着が薄いところにあると私は睨んでいるのです。しかしファンに対する想いはけっして他の大物ヴォーカリストたちに引けを取るところはなく、「私の歌で幸せになってほしい」という、ちょっと無私の境地に近いものが熱狂的ジュリー・ファンを生み出す原動力となっているのです。
巧みな「キャラ設定」と優れたバランス感覚
ジュリー・ロンドンは1926年(昭和元年)にサンフランシスコにほど近い、カリフォルニア州サンタローザに生まれました。本名はゲイル・ペック。いかに「芸名」が大切か思い知らされますよね。「ジュリー・ファンです」とは言えても、「ゲイル・ファン」じゃあ、あまりにも風情がなさすぎです。
それはさておき、ジュリーの経歴で大切なポイントは、彼女がいわゆる芸能一家に育っているところです。両親は歌と踊りのチームを作って舞台に出演し、ラジオの番組までもっていたのです。だからこそジュリーはわずか3歳で、両親のラジオ番組で歌を歌ったりもしているのですね。41年にジュリーは映画の都ハリウッドのあるロサンゼルスでエレベーター・ガールのアルバイトをします。わずか15歳ながら美貌のジュリーは映画関係者の目にとまり、44年に映画『ジャングルの妖女』に出演しますが、残念なことにこれは不評。47年に、のちにジャズ映画『皆殺しのトランペット』で監督と主演を兼ねた俳優、ジャック・ウェッブと結婚し、2児をもうけ女優業はしばし休業するのですが、思うにこの人生体験がジュリーの歌の柔軟性に繫がっているような気がします。
しかしウェッブとは別れてしまい、芸能界に復帰するのですが、そのきっかけとなったのがボビー・トゥループの存在でした。彼はジャズ・ヴォーカリストであると同時に、日本でも放映されたテレビドラマ『ルート66』の主題歌の作曲者でもあります。ジャズの世界に通じていたトゥループはジュリーの才能を見いだし、本格ジャズ歌手へと指導したのですね。その甲斐あって、ジュリーは55年にファースト・アルバム『彼女の名はジュリー』(リバティ)を録音し、この作品に収録されていた「クライ・ミー・リヴァー」がシングル・カットされ(第25号「ジュリー・ロンドン」に収録)大ヒット、一躍スター歌手の地位を獲得したのです。それと同時に女優業も復活、彼女の多彩な活動が花開いたのでした。
そして59年にはトゥループと結婚し、彼のプロデュースによるアルバム制作も行なっています。64年には夫妻で来日もしていますね。トゥループは99年に心臓発作で亡くなりますが、翌2000年にジュリーはあとを追うようにして亡くなっています。そしてふたりは仲よくロサンゼルスの墓地に埋葬されているそうです。どちらかというと私生活の不遇と引き換えにジャズ・ヴォーカリストとしての名声を得たスターたちが多い中、ジュリーはそのセクシー・イメージとは裏腹に、思いのほか「常識人」としての優れたバランス感覚が聴き手の心を和ませているように思えるのです。
文/後藤雅洋(ごとう・まさひろ)
日本におけるジャズ評論の第一人者。1947年東京生まれ。慶應義塾大学在学中に東京・四谷にジャズ喫茶『い~ぐる』を開店。店主としてジャズの楽しみ方を広める一方、ジャズ評論家として講演や執筆と幅広く活躍。ジャズ・マニアのみならず多くの音楽ファンから圧倒的な支持を得ている。著者に『一生モノのジャズ名盤500』、『厳選500ジャズ喫茶の名盤』(ともに小学館)『ジャズ完全入門』(宝島社)ほか多数。
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