妻ががん保険に加入してくれたおかげで、お金の心配をすることなく、治療法を選べたのはありがたかった
結果がすべて。名門チームで抑え投手という常に結果を求められるポジションを守ってきた男の言葉は重い。
「現役時代、ひじの痛みの原因が投球フォームにあったとしても、フォームを変えるわけにはいかなかった。なぜなら、そのフォームがあったからこそ、プロの世界で上り詰められたのだから。だから過去を振り返って原因を探るようなことはしない。その代わりに治療には全力を尽くす。ずっとそうやってきましたし、がんの治療に関してもそういう考え方で臨みました」
トモセラピーの治療でがんは無事に完治。現在も4か月に一度、かかりつけの病院で血液検査をしているが、PSA(前立腺特異抗原)の数値も安定しており、本人も「放射線治療を選択して良かった」と振り返る。ただ最先端治療は高額なことで知られる。角さんの場合、重粒子線で三百数十万円、トモセラピーで二百数十万円の治療費がかかったそうだ。
「妻ががん保険に加入してくれていたので、その点では助かりました。お金の心配をすることなく、治療法を選べたのはありがたかったです。今では『受けてよかった検診。入ってよかった保険』と標語のようにして言ってるんですけどね(笑)。自分の生活スタイルを崩さないように、自分なりの治療の条件をいくつか立てて、それに合う治療法を選択できた。まあ、家族には心配はかけてしまったかもしれないけれど、それ以外には特に迷惑を掛けずに、一人で通院して完治することができた。自分でこういう言い方をするのは、少し変かもしれませんが、今から振り返ってもいい闘病生活だったと思いますね」
【続編に続きます】
角盈男(すみ・みつお)
1956年6月26日生まれ(62歳)。鳥取県米子市出身。米子工高から三菱重工三原を経て、76年ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。78年に5勝7セーブをマークして新人王を獲得した。その後、投球フォームをサイドスローに変えさらに飛躍。ブルペン陣の中心的存在となり、81年に8勝20セーブの成績を残し最優秀救援投手に輝く。89年に日本ハムファイターズへ移籍。92年はヤクルトスワローズでプレーし、この年限りで現役を引退した。引退後は、ヤクルト、巨人で投手コーチを務めたほか、解説者の傍らタレントとしても活躍。次男・晃多は千葉ロッテマリーンズに所属していた元プロ野球選手。また長男・一晃も四国アイランドリーグplusでプレーしていた。2014年に前立腺ガンが見つかるが、放射線治療により根治した。
取材・文/田中周治 (たなか・しゅうじ)
1970年、静岡県生まれ。東京学芸大学卒業後、フリーライターとして活動。週刊誌、情報誌などにインタビュー記事を中心に寄稿。また『サウスポー論』(和田毅・杉内俊哉・著/KKベストセラーズ)、『一瞬に生きる』(小久保裕紀・著/小学館)、『心の伸びしろ』(石井琢朗・著/KKベストセラーズ)など書籍の構成・編集を担当。現在、田中晶のペンネームで原作を手掛けるプロ野球漫画『クローザー』(作画・島崎康行)が『漫画ゴラクスペシャル』で連載中。
撮影/藤岡雅樹