文/松村むつみ

今年のノーベル賞「低酸素応答」乳癌の検査や治療への応用は?
10月にノーベル医学生理学賞の発表があり、「低酸素応答」(細胞が低酸素を感知し、適応する仕組み)を解明したとして、欧米の医師3名(ウィリアム・ケリン氏、ピーター・ラトクリフ氏、グレッグ・セメンザ氏)に授与されましたが、「日本人受賞者」がいなかったため、昨年(免疫チェックポイント阻害薬で本庶佑さんが受賞)のようには話題になっておらず、一般での理解は進んでいないように思えます。しかし、「低酸素応答」は、腎不全による貧血から、癌にいたるまで非常に広い範囲での応用に役立ちうる仕組みです。ここでは、「低酸素応答」の仕組みを知っていただくとともに、シリーズで書いてきた、乳癌という女性の罹患率一位の病気に、この仕組みが今後いかなる治療をもたらすのか、あるいはもたらす可能性があるのかを書いてみたいと思います。

「低酸素応答」ってどんなこと?

地球上の生物のほとんどが、酸素を取り込んで生命を維持しています。さまざまな条件下で、周囲の環境から酸素が取り込めなくなり、低酸素状態にさらされることがあります。あるいは、癌などができて、部分的に低酸素となることがあります。こういった低酸素ストレスに対し、生体は、様々な仕組みで適応しようとします。その適応の仕組みの、中心的な役割を果たすのが低酸素誘導性因子(HIF)というものです。「低酸素環境への適応」は、非常に幅広い複雑な仕組みでなされており、まだ全貌が解明されてはいません。

HIFは、低酸素の状態になると、おびただしい数の遺伝子発現を促し、環境への適応を働きかけます。有名なもののひとつに、HIFがエリスロポエチンというホルモンを誘導して、赤血球を増やす働きがあります。エリスロポエチンは、腎臓でつくられ赤血球の産生を促すホルモンで、腎臓の機能が落ちる腎不全などの患者さんでは、作られなくなることが知られています。そのため、腎不全や透析患者さんでは、赤血球がつくられず貧血に陥ってしまいます(これを「腎性貧血」と言います)。これまでは、エリスロポエチンを注射することにより貧血の治療を行ってきましたが、注射による治療は負担も大きく、「HIF刺激薬」(HIFの低酸素応答を抑制する因子を阻害する薬)が日本でも認可され、腎性貧血の治療に利用されています。注射ではなく内服で治療でき、エリスリポエチンが無効の貧血にも効果があるとされています。

「低酸素応答」と癌の関係

低酸素応答は、先に挙げた腎不全以外にも、個体の発生や炎症、免疫応答など、生体の幅広いメカニズムと関連していることがわかってきています。

では、低酸素状態と癌はどんな関係があるのでしょうか。これまでの研究で、癌の増殖と転移には、低酸素状態が関与していることがわかってきています。癌は細胞の増殖が速いので、血管から細胞が遠くなると、酸素が行き渡らなくなり低酸素状態になります。低酸素状態になると、癌細胞はHIFを活性化させて、低酸素環境に適応しようとします。HIFにはHIF-1,2,3という種類がありますが、HIF-1は、HIF-1αおよびHIF-1βという2種類の分子で構成されています。このふたつのタイプは、様々なメカニズムを通して癌細胞の成長を助けています。HIF−1α活性と悪性度、予後不良、治療抵抗性の間には密接な関係があるとされ、癌の診断においてHIF-1α抗体を用いた病理診断が活用されることがあります。また、がん細胞の転移にもHIFが関与することがわかってきています。HIFを阻害するメカニズムが、腫瘍細胞の増殖を抑える働きをすると考えられ、現在、薬剤開発に関して様々な研究がなされています。

乳癌における研究や治療展望は?

これまで、乳癌の検査や臨床について、サライ.jpでもいくつかのコラムを書いてきましたが、今回は、低酸素応答のメカニズムを利用した乳癌の診断、治療の研究結果についていくつかご紹介しようとおもいます。

今回ノーベル賞を受賞したセメンザ氏のチームは、2011年に、乳癌の肺転移にHIF-1が関与することを示しました。乳癌による死は、通常、原発巣である乳腺の腫瘍ではなく、転移により引き起こされます。セメンザ氏のチームは、HIF-1産生量を低下させた乳癌細胞をマウスの肺に注入すると、HIF-1産生量を低下させなかった場合よりも腫瘍の面積が小さくなること、また、腫瘍が転移するには全身の血管にまわった癌細胞が血管の壁をやぶって他の臓器に侵入する必要がありますが、血管壁通過にHIF1活性が関わっている可能性を示唆しました1,2)

また、2015年には京都大学放射線治療科のチームが、遠隔転移に重要な役割を果たすHIF1を活性化する遺伝子としてUCHL1を同定し、UCHL1の腫瘍内発現量の高い乳がん、肺がんの患者で手術後の生存率が下がることを報告しています3)

また、2016年には、Briggsらは、一般的に悪性度が高く治療が難しいといわれるトリプルネガティブ乳がん(ホルモンの受容体やHER2の受容体が発現していないがん)において、他の種類の乳癌に比べてHIF-1αの発現量が増加していることを示し、HIF-1αの安定化に寄与する経路の存在を示唆しています4)

複雑な仕組みが関与する低酸素応答ですが、この仕組みを利用した、乳癌をはじめとする癌の治療薬開発が望まれています。

【参考文献】
1)Wong CC et al. “Hypoxia-inducible factor 1 is a master regulator of breast cancer metastatic niche formation.” Proc Natl Acad Sci U S A. 108(39):16369-74. ,2011
2)Zhang H et al. “HIF-1-dependent expression of angiopoietin-like 4 and L1CAM mediates vascular metastasis of hypoxic breast cancer cells to the lungs.” Oncogene. 31(14):1757-70.,2012
3)Goto Y et al. “UCHL1 provides diagnostic and antimetastatic strategies due to its deubiquitinating effect on HIF-1α.” Nat Commmun. 23;6:6153., 2015
4)Briggs et al. “Paracrine Induction of HIF by Glutamate in Breast Cancer: EglN1 Senses Cysteine.” 166(1):126-39.,2016

松村むつみ文/松村むつみ 放射線診断専門医 核医学専門医 日本乳癌学会認定医 医学博士
1977年 愛知県生まれ。2003年名古屋大学医学部医学科卒。国立国際医療研究センターにて初期研修。外科医を経て、2009年 より横浜市立大学にて乳房画像診断、PETを中心に画像診断を習得。2017年より、フリーランスの画像診断医となり、神奈川県内の大学病院や、複数の病院で、乳腺や分子イメージングを中心に画像診断を行う。医師業の傍ら、医療ジャーナリストとして、医療制度やがん、日本の医療の未来を中心とした記事の執筆も行う。プライベートでは、非医療職の夫、2人の子どもがいるワーキングマザー。

 

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