文/晏生莉衣
幕末から明治維新へ、激動の日本に暮らした「ドクトル・ヘボン」が聞いて綴った日本語ラグビーワールドカップ、東京オリンピック・パラリンピックと、世界中から多くの外国人が日本を訪れる機会が続きます。楽しく有意義な国際交流が行われるよう願いを込めて、英語のトピックスや国際教養のエッセンスを紹介します。

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昨今、議論を呼んでいる、日本人の姓名に関するローマ字表記について、前々回前回で取り上げました。日本のパスポートに表記されている氏名のローマ字に「ヘボン式」が使われていることは、一般的に知られていますが、では、なぜ「ヘボン式」と呼ばれているのかなど、あまりくわしくは知らないという方が多いのではないでしょうか。

「ヘボン式」ローマ字の考案者は、アメリカ人医師で、キリスト教伝道者のジェームス・カーティス・ヘップバーン博士(James Curtis Hepburn、1815~1911年)です。ペンシルバニア州ミルトンの裕福で信仰深い家庭の長男として生まれ育ったジェームスは、プロテスタント系のプリンストン大学卒業後、ペンシルバニア大学医学部に進学しました。牧師か法律家にという両親の思いをよそに医学の道に進んだヘップバーン博士でしたが、医師となってキャリアを積む中、名家の娘クララと出会い、お互いが持っていた海外宣教の志に共鳴します。二人は結婚し、その1年後に、ヘップバーン博士はクララ夫人とともに見知らぬアジアに向かって船旅に出ました。

とはいっても、ヘップバーン博士は初めから日本を目指したのではありません。当時の日本は鎖国政策を取っていて、海外に門戸を閉ざしていました。博士の派遣先となったのは中国でした。夫妻はシンガポールに到着後、アヘン戦争で長く足止めをされたあと、ようやく福建省の厦門(アモイ)に渡って伝道を開始しましたが、夫妻でマラリアにかかって健康が悪化し、約2年で活動を打ち切って帰国しなければなりませんでした。

帰国後、ヘップバーン博士はニューヨークで開業し、大成功を収めます。しかし、中国での失意を抱え続けていた博士は、ペリー来航を経て日本が開国し、教会が日本への宣教を計画し始めると、これを神が与えてくれた新たな使命と感じて日本行きを志願します。大繁盛していた医院を閉じて再び危険を伴う海外宣教に出ることに、両親や親戚、友人一同は大反対しましたが、それ押し切って、唯一の賛同者で強力な協力者のクララ夫人とともに、サムライの国日本に向かったのです。ヘップバーン博士44歳、クララ夫人42歳の時のことでした。

夫妻にとっては、13年間で築き上げた地位と名声を捨てただけでなく、最愛の息子、14歳サムエルを友人に預けるという犠牲をも払った上でのことでした。夫妻は6人の子どもをもうけましたが、最初の伝道中に2人が、コレラの流行などで衛生状態が悪かったニューヨークで3人が亡くなり、サムエルは唯一、無事に成長した子どもでした。その大切な一人息子を危険な目にあわせるわけにはいかないという苦渋の選択だったのでしょう。

「ヘボン先生」となって慕われ、多くの功績を残す

1859年(安政6年)、ヘップバーン夫妻は神奈川沖に到着。夫妻の来日の直接のきっかけとなった日米修好通商条約に調印した井伊直弼による安政の大獄と、その井伊直弼が暗殺される桜田門外の変という、江戸幕府を揺るがす二つの事件の合間の時期でした。当時、幕府によりキリスト教の布教は禁止されていましたが、西洋人の近代医療は日本人に恩恵があったために黙認されており、ヘップバーン博士は早速、神奈川の寺に診察所を開きます。漁師から武士まで、あらゆる人たちを分け隔てなく受け入れ、無料で診察した博士の医術は、江戸からも患者が押し寄せるほど評判を呼びましたが、幕府の命令によって、診療所は半年経たずに閉鎖されてしまいました。それでも博士は横浜の居留地に移住後に診察所を再開し、64歳の時に体調の理由から閉鎖するまで、ニューヨークで医院や家屋などの財産を売り払って得た私財を投じ、無償の医療活動を続けました。

日本は尊王攘夷運動で殺気立ち、外国人にとってとても危険な地でした。それでも、刀を腰に差した浪人が市中を闊歩する幕末の動乱期のさなか、ヘップバーン博士は粛々と医療活動を続けます。神奈川にも不穏な空気が漂っており、薩摩藩藩士によって4人の英国人が殺傷される「生麦事件」が起こった際には、緊急に呼び出されて駆けつけたヘップバーン博士が、重傷者の治療に当たりました。温厚ながらも必要とあらば果敢に行動するアメリカ人の名医の存在は日本で広く知られるようになり、色々な歴史文学の登場人物としても人気を集めました。山田風太郎の小説には「ドクトル・ヘボン」「ヘボン先生」として登場しています。博士の人徳や医療活動への敬愛の念を込めて、「ヘボン翁」といった愛称もつけられました。

「ヘボン」は、日本人が耳で聞き取った博士の姓を発音しやすくしたカタカナ読みですが、日本人が自分のことをそう呼んでいると知った博士は、自らも「ヘボンでござります」と称するようになりました。医療活動のかたわらで日本語の研究を重ね、日本初の和英辞典といわれる「和英語林集成」を編纂、出版したことも、ヘップバーン博士の日本での功績の一つです。そして、その日本語の研究をとおして考案され、辞典を書くのに使われたのが、博士の功績のうち、日本人の間で最も知られることになる「ヘボン式」ローマ字です。

このローマ字の考案や和英辞典の編纂については、博士が伝道活動のために聖書を翻訳する目的で行ったとされることが多いのですが、それはキリスト教関係者の目から見た限定的な解釈と言えるでしょう。ヘップバーン博士は、診察所の治療や日々の生活の中で様々な階級の日本人と触れ合い、その人々の話に注意深く耳を澄ませ、聞こえたとおり正確に言葉を書き留めていきました。そのようにして、日本語を忠実にローマ字に変換していったのが、後に「ヘボン式」といわれるようになったヘップバーン博士独自のローマ字表記です。

聖書の翻訳という目的を超え、日本語を理解して日本人をもっとよく知りたい、日本文化を深く理解したいという、ヘップバーン博士の日本に対する深い思いが和英辞典の編纂につながっています。事実、派遣元のアメリカの教会からは、伝道に直接関係ないとして出版費用の負担を拒否され、横浜のアメリカ人商人が出資を申し出てくれて、刊行が可能になったのです。出版後、評判を呼んで版を重ねたその和英辞典の初版には、「アア(嗚呼)」、「ホロホロト」といった感嘆詞や副詞まで含めた日常の言葉から、近眼、神経、胃などの医療関連用語まで、聖書とはおおよそ無関係の言葉が2万語以上も収録されています。第三版では古事記や万葉集からの古語も収録されました。日本という異文化理解のためのヘップバーン博士の真摯な努力が「ヘボン式」ローマ字を生み、和英辞典が編纂されていったことを、辞典に盛り込まれた多種多様なヴォキャブラリーが物語っています。

博士が若かりし頃のプリンストン大学時代に、あまり気乗りしなかったものの、学長に諭されて古典を学び、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語の知識を得ていたことが、日本でのローマ字の作成や和英辞書、聖書訳に大いに役立ったのも、深遠なる神の摂理といえるのかもしれません。

夫妻二人三脚で、日本の国際化に貢献

さらに、博士は、アメリカでは教師だったクララ夫人とともに、「ヘボン塾」と呼ばれる私塾を開いて英語教育を行い、後に日銀総裁、大蔵大臣、総理大臣となった高橋是清や、外務大臣となった林董、三井物産を創始した益田孝など、明治維新後の日本を担う、今で言う「グローバル人材」を多く輩出しました。「和英語林集成」で得た収益は、ヘボン塾の後身として発展した明治学院にすべて寄付されましたが、その寄付金で建てられた寄宿舎には、後に日本を代表する作家島崎藤村となる島崎春樹が一期生として寄宿し、卒業式では初代総理となったヘップバーン博士から証書を手渡されています。塾は当時としては画期的な男女共学で、女子部はその後、フェリス女学院の創設につながりました。世界に向けて門戸を開き、近代化していく日本を代表する様々な日本人の教育にかかわったことは、ヘップバーン夫妻の功績です。

このように、よく知られた「ヘボン式」ローマ字表記法の考案だけでなく、医療や教育をとおして日本の国際化に貢献したヘップバーン博士でしたが、77歳となった1892年(明治25年)、日本からの引退を決め、夫妻はアメリカへの帰国の途につきました。帰国の一番の理由は、老齢による健康の衰えでしたが、その2年前には日本で金婚式を祝い、明治の文明開化から時が経って、日本でできることはやり終えたという悟りの境地に達しての決断だったと言われています。

幕末の動乱期から明治時代、ヘップバーン夫妻の日本滞在は、実に33年間にもおよびました。その間、ここで挙げた業績だけでなく、聖書の日本語訳を完成させ、教会建設に尽力するなど、本来のキリスト教伝道にも力を注ぎました。来日当初から江戸幕府から圧力を受けたり、刺客や暴漢のターゲットとなったりと、危険な目にあっただけでなく、多額の家屋建設費用をだまし取られたり、盗難にあったり、和英辞典の海賊版が出回ったりと、不快な出来事にも多々、遭遇しましたが、それでも信仰にもとづいた意志を変えることなく、ヘップバーン博士は、良き伴侶で協力者であり続けたクララ夫人とともに、中年期から老齢期にかけて、人生の後半の生涯を日本に捧げたのです。

帰国後はニュージャージー州に終の住処を定め、日本に思いをはせながら、静かな晩年を送りました。博士の90歳の誕生日には、日本政府から勲三等旭日章が贈られるといううれしいプレゼントがあり、その翌年、クララ夫人が88歳で召天。ヘップバーン博士は、夫妻が生きた明治の時代が終わりを告げる前年に、96歳でその生涯を終えました。

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ヘップバーン博士の置き土産ともいえる「ヘボン式」ローマ字は、現在でも日本のパスポートの氏名の表記法として用いられています。その一方で、昭和に入ってから、「ヘボン式」とは異なる日本独自の表記法が定められ、1954年(昭和29年)の内閣訓令に従って、学校では「訓令式」ローマ字が教えられています。日本人姓名のローマ字表記の順序に関する議論(レッスン15、16、17参照)以外にも、ローマ字についてはこうした別次元の違いがあって、その不統一についても議論が存在しています。このことについては引き続き、次回、取り上げていきたいと思います。

文・晏生莉衣(あんじょうまりい)
東京生まれ。コロンビア大学博士課程修了。教育学博士。二十年以上にわたり、海外で研究調査や国際協力活動に従事後、現在は日本人の国際コンピテンシー向上に関するアドバイザリーや平和構築・紛争解決の研究を行っている。

 

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