文/晏生莉衣
ラグビーワールドカップ、東京オリンピック・パラリンピックと、世界中から多くの外国人が日本を訪れる機会が続きます。楽しく有意義な国際交流が行われるよう願いを込めて、英語のトピックスや国際教養のエッセンスを紹介します。
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「英語とローマ字の違いってなに?」 そんな疑問を持つ方々が少なくないことから、前回のレッスンでは、英語とローマ字の発祥をたどって考えました。続いて今回は、偉大なるローマ字が、いかにして日本に取り入れられていったのか、日本との歴史を追ってみたいと思います。
英語にローマ字が導入されたのは、6世紀末のキリスト教伝道によるということは前回触れました。結論から先に言えば、そのローマ字がはるか遠くの日本に伝えられたのも、やはり、キリスト教の伝道によるものです。とはいっても、日本への伝来はおよそ1000年の時を経た、16世紀の出来事です。
それは今からちょうど470年前。現代ならお盆休み真っ最中の8月15日、日本に初めてキリスト教を伝えたカトリック宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したことが発端です。ザビエル来日は、日本人なら誰でも教わったはずのおなじみの史実ですが、それ以前については省略されることも多いので、ちょっとおさらいしましょう。ローマで誕生したばかりのイエズス会の一員として活動していたザビエルは、当時、勢力をふるっていたポルトガルの王の依頼を聞いたローマ教皇の祝福を受けて、アジア伝道に派遣されました。そして、インド各地やマラッカ、インドネシアなどを6年かけて布教で回るうちに日本について聞き及び、ローマを出発した時には存在すら知らなかったその島国への布教を決意して、さらに海を渡ったのです。
時は室町時代末期、ザビエル渡来と前後して南蛮貿易が始まっており、ポルトガル商人が話すポルトガル語は、日本に最初に伝えられたヨーロッパの言語だと言われています。ザビエルはスペインに併合されたバスク地方の生まれで、バスク語、スペイン語以外にもフランス語が堪能で、進学したパリ大学ではラテン語、ギリシア語、ヘブライ語を学び、さらに、活動の地で使われていたイタリア語とポルトガル語も話すことができたと想像されます。ザビエルはこのように大変なマルチリンガルな人だったのですが、そうした語学力も、やってきたオリエンタルの異国では役に立たず、大変苦労し、布教のためには日本語を学ぶ必要があると、さらなる向上心に燃えて考えました。
ヨーロッパの文化と技術で本格的に印刷して出版
以後、ザビエルにひき続いて渡来したイエズス会会士たちは、その考えにしたがって日本語を学び、さらに、日本の地に広まっていたポルトガルの文字を使って、日本語でキリスト教の教えを説くようになりました。ポルトガル語はスペイン語やフランス語と同じくラテン語から派生したロマンス語の言語ですから、ポルトガルの文字とは、すなわち、ローマ字だったのです(レッスン20参照)。これが、やがて日本文化の国際化ツールとなる、日本語のローマ字表記の始まりでした。
ザビエル渡来から約40年後には、ルネッサンスの三大発明の一つであるグーテンベルクの活版印刷機が、ザビエルの後継者の一人、ヴァリニャーノによって初めて日本に持ち込まれます。そのエポックメイキングな出来事によって本格的な出版物の印刷が開始され、ポルトガル式ローマ字表記の日本語で書かれた書物が続々と刊行されました。「キリシタン版」と呼ばれるこれらの刊行物は、キリスト教の教理書のほか、宣教師たちの日本語学習向けのリーダー(読本)として、『平家物語』などの日本の古典も出版されているのが興味深いところです。
ポルトガル語による日本語のローマ字表記は、「かきくけこ」は「ca、qi、cu、qe、co」、「さしすせそ」は「sa、xi、su、xe、so」など、ところどころに今とは違う特徴がありました。「はひふへほ」は「fa、fi、fu、fe、fo」となっていますが、これは、当時の日本人が、「は行」を、ふぁふぃ…に近く発音していたためともされていて、熊本の天草で印刷されたキリシタン版『平家物語』は、「FEIQE NO MONOGATARI」。「へいけ」ではなく「ふぇいけ」でした。
こうした書物は、日本語史上初めての試みとして、日本語がどのようにローマ字で書かれたのかを目にすることができるだけでなく、当時の日本人の発音を知ることにもつながる、歴史的にとても貴重な研究資料になっています。この『平家物語』を含む一冊は大英図書館で所蔵され、世界で唯一現存しているとされる大変価値の高いものですが、最近、日本のサイトでもデジタル画像が見られるようになりました。ご興味のある方はどうぞご覧になってみてください。
(https://dglb01.ninjal.ac.jp/BL_amakusa/)
江戸時代に一度死に、生き返る
こうして貴重な文化財を生んだポルトガル語のローマ字ですが、その後のキリスト教弾圧と禁制、鎖国によってその生命は絶たれ、ローマ字は日本から長らく姿を消してしまいます。他方、布教とは一線を画したオランダとの交易は鎖国の間も許されており、江戸時代中期、享保の改革時代に洋書の禁輸が緩和されると、西洋文化につながる唯一の手段として蘭学が盛んになります。蘭書を読むためにオランダ語が学ばれるようになりますが、オランダ語は同じゲルマン語派に属する英語ときわめて近い言語で、そのアルファベットはやはりローマ字です。こうして、一度は命を失ったかと思われたローマ字は、ポルトガル語からオランダ語のアルファベットに姿を変えて、再び息を吹き返しました。蘭学者は、次第にローマ字綴りで日本語を書くようになり、オランダ式のローマ字表記が使われるようになったのです。
その鎖国政策がようやく終わり、次に登場するのが、レッスン18でその生涯を紹介したアメリカ人医師、ヘップバーン博士によるヘボン式ローマ字です。「ヘボン式」という名称は、考案者のヘップバーン博士の名前を日本人がなまって「ヘボン」と発音したことからつけられたものですが、ちなみに英語では、オリジナルのお名前のとおり、「Hepburn system」と呼ばれています。ヘボン式が普及する前には、ヨーロッパの日本研究家によるドイツ式、フランス式、イギリス式も登場しており、日本語のローマ字表記には、かなりヴァラエティに富む変遷を見ることができます。
ここで注目されるのは、ヘップバーン博士が外交官でも商人でもなく、宣教活動を目指した医師だったことです。ヘップバーン博士はヘボン式ローマ字の考案以外にも、医学、教育と多方面にわたって業績を残されましたが、本来の来日の動機は、ザビエルと同じく、キリスト教の伝道でした。そして、ザビエルもヘップバーン博士も日本語研究に力を注ぎ、ザビエルの開いた道からは日本初のローマ字表記の書物が刊行され、ヘップバーン博士は日本初の和英辞典を編纂しました。奇しくもこの二人の欧米人は、時代は違えど、キリスト教の布教を超えて、同じ日本語という分野で大きな貢献を残したのです。
そうした印象深い共通点があるものの、1549年来日のザビエルはカトリックの宣教師、1859年来日のヘップバーン博士はプロテスタントの宣教医と、時代背景もキャラクターもまったく異にする二人。それぞれが日本に与えたインパクトの大きさもさることながら、この二人の渡来からは、約300年のうちに、カトリックのヨーロッパからプロテスタントのアメリカへと、西洋世界の力関係が大きく変化したことを、さらに読み取ることもできます。
以上、急ぎ足で日本のローマ字文化をたどってみました。その歴史は前回取り上げた英語史とは比べものにならないほど浅いものですが、ローマから送り出された宣教師によるキリスト教伝来に端を発したという経緯が、ブリテン島の英語の場合とよく似ているのも、歴史の面白いところです。その一方で、ブリテン島でアングロ・サクソン人が受け入れたのは、ラテン語聖書に記されたキリスト教の信仰で、ローマ字のインプットはその副産物のようなものだったのに対し、日本ではむしろ、ローマ字のほうにきわだった価値が見出され、主役と脇役が入れ替わったような形で現在に至っているという違いもまたユニークです。
“History doesn’t repeat itself, but it often rhymes.” ―― 同じ歴史は繰り返されないが、歴史は韻を踏む。 英語と日本語、それぞれのローマ字との出会いのドラマをこうして振り返ると、マーク・トゥエインの名言が、ふと頭に浮かんできます。
文・晏生莉衣(あんじょうまりい)
東京生まれ。コロンビア大学博士課程修了。教育学博士。二十年以上にわたり、海外で研究調査や国際協力活動に従事後、現在は日本人の国際コンピテンシー向上に関するアドバイザリーや平和構築・紛争解決の研究を行っている。