文/後藤雅洋
■サッチモの偉さはどこに
名前は知っていても、その実像の凄さがいまひとつ理解されていない超大物ジャズマンが、サッチモと愛称されたルイ・アームストロングではないでしょうか。
ちなみに「サッチモ」というあだ名の由来ですが、satchel mouth(かばんのような大口)、あるいはSuch a mouth!(なんて口だ!)など諸説ありますが、どちらもありそう。コルネット(トランペットの一種)を吹き、歌も歌い、そして多くの映画に登場した人気者で、ジャズの代名詞的存在でありながら、「どこが偉いのか?」ということになると、大きな目玉をくりくりさせる彼の愛嬌がかえって徒になって、さほど理解されているようには思えないのです。
もっともそれは私自身の体験による先入観かもしれません。ジャズを本格的に聴き始めるはるか以前からそのキャッチーなキャラクターも手伝って、なんとなくではありますがサッチモのことは知っていました。そして彼の親しみに満ちた笑顔を「まさにジャズだなあ」と思ったものでした。しかしその印象も、のちにサッチモとは対照的でいかにも神経質そうな名トランペッター、マイルス・デイヴィスや、激情的テナー・サックス奏者、ジョン・コルトレーンなどの「モダン・ジャズマンたち」を知るようになってからは、若干影が薄くなってしまったことは否めないのです。ひとことで言ってしまえば、「昔のスター」というイメージでしょうか。
そうした「思い込み」が大きく変わってきたのは、本気でジャズにのめり込むようになってからでした。ジャズの紹介本などを書くようになり、「ジャズの魅力」を初心者の方にもわかりやすく解説するようになって、ようやく「ジャズの原点」にはルイ・アームストロングがいるのだということが実感としてわかってきたのです。
「ジャズの魅力・原点」をひとことで言うと、「個性の発現」ということになるでしょう。これは器楽演奏でもヴォーカルでも同じです。このジャズの魅力の原点を探っていくとサッチモが現れるのですから、いかにこの人の存在が大きいかおわかりかと思います。とりわけ「ジャズ・ヴォーカル」の始まりは何だろうと歴史をひもとくと、じつに面白いエピソードが登場するのですね。
1926年のことです。ルイ・アームストロングが「ヒービー・ジービーズ」という曲をレコーディングしているとき、楽譜を落としてしまいアドリブで「ウヴィ・ウヴィ~」と歌詞とは関係なく歌い出し、それがスキャットの始まりとされているのですから、まさにサッチモはジャズ・ヴォーカルの元祖なのです。おそらく落としたというのは「言い訳」で、サッチモは最初からこうした面白い試みをやる気だったのでしょう。というのも、彼にはもともとそういう自由なアイデアを好む傾向があるのですね。
そしてその発想法は「ジャズ」という音楽の発端、根源とも密接に繫がっているのです。
■ジャズを作った男
ここでヴォーカルも含めた「ジャズ史」についてちょっと話しておこうと思います。私たちは「歴史」を1本道の完成されたストーリーとして受け取りがちですが、実際は双六のように何本もの脇道や行き止まりが途中には控えていたはずなのです。しかし歴史はいちいち脇道に触れることなく、「今に繫がる道筋」をメインに語るので、つい私たちは「消え去った脇道」の可能性を忘れてしまうのですね。
ジャズも同じです。ジャズは19世紀末にニューオルリンズで誕生したことになっており、そのこと自体はほんとうのことだと思います。しかし、仮に20世紀前半にルイ・アームストロングという「ジャズの巨人」が登場していなかったら、「ジャズ」は今みなさんがお聴きになっている音楽とは違ったものとなっていた可能性はかなり高いのです。また極端な想像をすれば、失われてしまった過去の民族音楽のように、まったく忘れ去られてしまったということだって、考えられなくはありません。
つまり、原初の多様で混沌とした自然発生的音楽だった「ジャズ」に、的確な方向付けサッチモが行なったことによって、ジャズは現在に繫がる個性的で魅力的な音楽ジャンル足りえたのです。具体的に指摘すれば、それまで、多くの音楽と同じように、どちらかというと「楽曲」を表現すべくオーソドックスに演奏されていた楽器奏法を、むしろ「演奏者の個性」を強調する方向にサッチモは引っ張っていき、それが大成功したのです。
彼はトランペットの親戚楽器であるコルネットから、まさにサッチモならではの肉声を迸らせたのですね。そしてそれがじつに個性的であると同時に魅力的であったからこそ、サッチモ以降のジャズマンたちは安心してそれぞれの楽器から「自分なりの音」を出すようになったのです。それによって、本来譜面のあるクラシック音楽用に作られたピアノやらサックス類といった「西欧楽器」から、今私たちが親しんでいるきわめて人間的な「ジャズの音」を響かせることができたのです。
ヴォーカルも同じで、サッチモは歌詞や原曲のメロディ・ラインに縛られた状態から、より歌い手の個性を発揮しやすい「スキャット・ヴォーカル」を「発明」することによって、「歌」をより自由で個性的表現である「ジャズ・ヴォーカル」たらしめたのです。つまり器楽ジャズとヴォーカル・ジャズは、サッチモという偉大なミュージシャンによって、ひとつに繫がっているのです。そしてその「蝶番」となっているアイデアが、それぞれのミュージシャンの個性的表現という、ジャズの大原則なのです。
■ニューオルリンズと音楽
ルイ・アームストロングは20世紀が始まると同時、1901年8月4日にジャズ発祥の地、カリブ海に繫がるメキシコ湾に面したアメリカ南部の都市ニューオルリンズで生まれました。昔は7月4日誕生説もありましたが、これはアメリカ独立記念日にかけた伝説でしょう。ところで、ルイがニューオルリンズ出身であるということはかなり重要です。というのも、ニューオルリンズを含むアメリカ南部のルイジアナ州は、昔はフランスやスペインの植民地であり、またメキシコ湾に面した港湾都市であるため、ラテン音楽の影響が街の隅々にまで行き渡っていたのです。
ここでちょっと脇道に逸れますが、「ジャズ」という音楽をどう捉えるかという見方に、かつてふたつの大きな流れがありました。ジャズを含む黒人音楽全般、 そしてポピュラー・ミュージックに詳しい音楽評論家、中村とうようさんは、ジャズをブラック・ミュージックの一種として捉えていました。この発想はわかりやすいし、間違ってはいないと思います。
他方、ジャズ評論家として一家を成した油井正一さんは、ジャズを黒人発祥の音楽としつつも、「ラテン・ミュージックの一変形である」というアメリカの学者がとなえた学説を、「無視してはいけない」と発言しているのですね。もちろんその説はジャズ発祥の地、ニューオルリンズの歴史を踏まえたものでした。
現代では、ジャズ以上に黒人音楽の代表と思われているブルースにも、思いのほか白人音楽の影響がみられることが明らかになっており、油井さんの指摘があらためて注目されています。サッチモも、ニューオルリンズの街中で流れていたさまざまなラテン・ミュージックを聴いて育ったのでした。
彼はエンターテイナーとしての素質にも優れていたため、ジャズマンとして名を成してからは『五つの銅貨』など映画にも多数出演しており、多くの人々に愛された巨人といっていいでしょう。しかしそのコメディアン的な資質が徒となって、彼の革新性が見えにくくなっていることも否めません。硬軟取り混ぜいろいろなエピソードがあります。子供のころ、面白がって家から持ち出したピストルを街中で撃って少年院に入れられた、などというのはその代表でしょう。もっとも、そこでトランペットを教えられたのがきっかけでジャズマンになったことを考えれば、まさに「ひょうたんから駒」ですね。
他方、成人してからは人種差別問題に対して厳しい姿勢を示しています。公立学校が黒人生徒の入学を拒否した1957年のリトルロック事件では、「アイゼンハワー大統領はあの子たちの手を引いて登校すべきだ」とじつにキッパリとした姿勢を示しています。要するに気質として陽性でまっすぐ。目玉をくりくりさせるような「道化的」なところが注目されがちですが、芯は骨太な人間なのですね。それはジャズにおいても通じ、彼の音楽はつねに前向きで人間味に溢れています。
■演奏の場を求めシカゴへ
1914年に「出所」したルイは、ニューオルリンズのいろいろなバンドで演奏を始めました。そしてキング・オリヴァーという伝説のトランペット奏者に可愛がられ、 ジャ
ズ・トランペッターとしての道を歩み始めるのですが、それ以前、つまりまだ子供のころから、彼は4人組のヴォーカル・グループで歌を歌っているのですね。もちろんまだ10歳かそこらなのでアマチュアの遊びに近かったのでしょうが、ともあれ、彼の音楽歴の始まりはヴォーカルだったというところは、注目すべきでしょう。
17年、アメリカは折からヨーロッパで戦われていた第一次世界大戦に参戦します。ニューオルリンズはアメリカ海軍の軍港でもあったため、兵隊たちの風紀を守るため、それまでジャズマンの職場でもあった華やかな女性たちのいる地域(「紅灯街」などとも呼ばれている)が閉鎖されてしまいます。そのため多くのミュージシャンが新たな仕事場を求め、ニューオルリンズを河口とするミシシッピ川を遡り、北部の大都市シカゴなどへ移動していきます。
ルイの師匠でもあったキング・オリヴァーも、さっそくシカゴに移動します。22年、ルイはオリヴァーにシカゴに呼ばれ、彼のバンドの2番目のトランペッターとして雇われました。このときの面白いエピソードがあります。そのころは現在のマイクロフォンのような電気による録音装置がなく、レコードは機械式の吹き込みで、大きなラッパに向かってバンド全員が演奏していました。しかしルイのトランペットの音が並外れて大きすぎバランスがとれず、ひとりだけバンドからはるか後方に立たされたというのですね。当時は楽器から大きな音が出せることがジャズマンの必須条件でもあり、ルイはそうした面でも圧倒的だったのです。
もっとも、音が大きければよいというのでは、現代の感覚としてはあまりにも大ざっぱな感じがします。しかしルイのサウンドはそれにとどまらないのです。彼のトランペットはまさに人の声のように表情豊かに聴こえるのですね。ここのところはかなり重要なポイントです。ヨーロッパで完成したトランペットは、進軍ラッパから発達したなどといわれていますが、クラシック音楽では、当然譜面に書かれた「楽曲」を表現するため、一定の整った音色で演奏することが求められています。
そうした「西欧楽器」から、サッチモはまさに「歌声」の延長線上のような、きわめて人間的な音色を響かせることができたのです。おそらくサッチモは、最初の音楽体験である「歌」の延長線上でトランペットを吹いていたのでしょう。つまりサッチモは、器楽ジャズとヴォーカル・ジャズの橋渡しの役割を果たしたのですが、そもそもサッチモにとっては、器楽ジャズ自体が歌の延長線上に発想されていたのですね。
サッチモはその後独立し、「ホット・ファイヴ」「ホット・セヴン」といった、それぞれ5人編成、7人編成のバンドを組み、多くの優れたレコーディングを行ないました。前述の「楽譜落とし」エピソードは、この時代の出来事です。
そしてサッチモはニューヨークにも進出し、フレッチャー・ヘンダーソンという優れたビッグ・バンド・リーダーのもとで演奏しますが、サッチモの存在が、このバンドの「ダンス・バンド的」性格までも、「ジャズ的」な方向に変えさせてしまったのです。まさにジャズの開祖といっていいでしょう。
■普遍的なジャズの原点
40年代半ばに至り、ジャズは天才的アルト・サックス奏者、チャーリー・パーカーの出現によって大きく変化します。リズムと即興性の大幅な進化です。しかしながら「パーカー以後」のモダン・ジャズマンたちの演奏にも、サッチモが切り拓いた「個性的表現」の大原則は引き継がれ、そのジャズの伝統は、現代ジャズにも綿々と受け継がれているのです。そしてこの器楽ジャズ史の流れは、ジャズ・ヴォーカルの分野でも、まったく同じように現代ヴォーカル・シーンに受け継がれているのです。ですからサッチモの歌唱からは、ジャズ・ヴォーカルの原点が聴き取れるだけでなく、「個性の発現」というジャズそのものの原点までもが、色濃く現れて出ているのです。
文/後藤雅洋(ごとう・まさひろ)
日本におけるジャズ評論の第一人者。1947年東京生まれ。慶應義塾大学在学中に東京・四谷にジャズ喫茶『い~ぐる』を開店。店主としてジャズの楽しみ方を広める一方、ジャズ評論家として講演や執筆と幅広く活躍。ジャズ・マニアのみならず多くの音楽ファンから圧倒的な支持を得ている。著者に『一生モノのジャズ名盤500』、『厳選500ジャズ喫茶の名盤』(ともに小学館)『ジャズ完全入門』(宝島社)ほか多数。
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