どこから出てきたのか。足軽あがりのその者には稀なる才が宿っていた。その才を持って、民草(たみくさ)から天下人へと駆け上がった、日本史上ただひとりの男。豊臣秀吉。その謎に満ちた生涯を、解き明かす。
城への食糧補給路を断ち飢餓状態に追い込んだ

三木合戦の様子を描いた合戦図で、江戸時代初期の作。毎年4月17日に合戦図3幅を三木市の法界寺本堂に掲げ、語り手による「法界寺絵解き」が行なわれる。法界寺蔵 写真/三木市教育委員会
三木城攻め(1578〜80年)

敵将:別所長治(1558〜80)

天正6年(1578)春、播磨の戦国大名・別所長治が、織田信長に敵対して本拠の三木城(兵庫県三木市)に籠城した。信長の命により秀吉は出陣し、数万とされる大軍で城を取り囲んだ。「三木の干(ほし)殺し」と称される秀吉の軍略について、前出(https://serai.jp/hobby/1251205)の小和田哲男さんはこう評価する。
「秀吉の戦いぶりは、“城攻めがうまかった”の一言に尽きます。本来なら播磨に近い地の家臣が担当すべきところを、信長は近江(滋賀県)にいる秀吉に任せた。秀吉の調略能力に期待してのことでしょう。そこで秀吉は、可能な限り自軍の損害を少なくする方法をとりました。それが敵方を城に封じ込める包囲作戦、兵糧攻めです」
見落としで時を費やす
三木城の包囲作戦では、秀吉方の失敗もあった。
「別所方は三木城の周囲の支城と連絡をとって、密かに兵糧を城に運び入れており、それを秀吉軍は見落としていたようなのです。その後、秀吉軍は監視を厳しくして補給路を断ち、同時に黒田官兵衛を使って敵方への調略も行ないました。力攻めをしないのが秀吉の戦い方ですが、1年10か月という長い期間がかかってしまいました」(小和田さん、以下同)
三木城内は飢餓地獄と化し、力尽きた別所長治は、天正8年1月、城兵の命と引き換えに切腹して三木城は開城した。続いて秀吉は山陰の鳥取城の攻略へ向かう。
鳥取城攻め(1581年)

敵将:吉川経家(1547〜81)

堅城を蟻も漏らさぬ包囲で落とした
三木城を落とした秀吉は播磨一帯を制圧し、黒田官兵衛から提供された姫路城に拠点を置いた。つぎの攻撃目標は、因幡(鳥取県)の毛利方の堅城・鳥取城である。秀吉は城主の山名豊国を調略し、投降させることに成功。ところが残された城兵は戦いをあきらめず、大物クラスの城将の派遣を毛利氏に要請するという珍しい事態となった。こうして毛利一族の武将・吉川経家が鳥取城に入った。
秀吉は、まず補給路を断ち、周辺の村々を襲って農民たちに乱暴狼藉を働くよう命じ、農民たちはたまらず鳥取城内に逃げ込んだ。その上で秀吉は2万の大軍で城を包囲したのだ。
「秀吉の優れた点のひとつは、過去の失敗を反省し、次の作戦に活かしたことです。鳥取城攻めでは、あらかじめ商人を因幡国に送りこんで米を買い占めさせるのです。これは『陰徳太平記』という毛利氏の事績をまとめた史料にしか出てこないので、どこまで本当かはわかりません。しかし秀吉なら充分にありえた話だと思います」

常識破りの早期開城
鳥取城では約4000の城兵に加え、農民が2000人ほど入ったことで食糧はすぐに底をつき、城内は餓死者が続出する凄惨な状態に陥った。見かねた吉川経家は自身の命と引き換えに降伏した。
「約2年かかった三木城とは違い、わずか3か月で落ちたのです。非人道的な作戦ではありますが、守りの堅い鳥取城を落とすには、この方法でやらざるを得なかったという見方もできます」
解説 小和田哲男さん(静岡大学名誉教授)

取材・文/上川畑 博 イラスト/さとうただし 地図/モリソン
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