文/鈴木珠美
母の運転が荒くなった。
子供の頃、父をはじめ、親戚の方々など色々な大人たちが運転する車に乗せてもらった。限られた大人たちではあったが、その中でも母は断トツで車の運転は上手だった。子供ながら、いや子供だからこそ分かる、安心感。体をこわばらせることが無く、リラックスした状態で車の移動を楽しむことができた。実際に自分自身が免許を取得してから母が運転する車に乗ると、それは明白で、母はペダル操作が上手く、信号で停まっても車ががくがくと揺れない。加速もスムーズで、車の台数が増える国道や高速道路でも周囲の流れに沿ってきびきびと車を走らせた。走車間距離も適切で、Uターンも素早い。駐車場でも空スペースを見つけたら、バッグからでもすいすいと上手く枠内に停めた。何より、心地よいのは運転のめりはりだった。
最初に母の運転に対して「どうしたのだろう……」と首をかしげたのは、5年ぶりに母が運転する車に乗ったときのことだった。母がアクセルペダル、ブレーキペダルを踏むときに、私の体が前に後ろに揺れた。母が運転する車ではこれまでまったくなかった現象だ。そのとき改めて母の年齢を思い浮かべた。――――そうか、もう、60を超えていたんだっけ……。
しかしそのときは、それは運転が上手かった母だから気になった現象であり、年齢に関係が無く、ペダル操作が苦手な人はたくさんいる。ベテランドライバーであっても、繊細なペダルタッチがいつまでたっても習得ができないドライバーもいるので、それほど神経質になる必要は無かったのだが、それを境に母の運転を慎重に見守るようになった。
最初の気づきから5年が過ぎた。
近ごろは少し、気をもんでいる。
ペダル操作の荒さに加えて、周囲の状況を把握できる範囲が少し減っているように感じる。それに近ごろ母の体力は落ち、足腰も弱っている。体力が落ちれば、運転に対する集中力も落ちていくものだ。
それでも車間距離は適切に開けているし、(当たり前だが)横断歩道では歩行者優先、変わらず駐車はうまく、車幅感覚はあるので、安全に運転はできる範囲だ。ただひとつ気になるのは、母自身が、運転が上手いことを少し自負しているところがあること。運転が若い頃のようには上手くいかなくなってきたことを母自身が自覚しているなら、心配する気持ちは多少和らぐのだが、母から聞く話はいつも周囲にヘタな車がいたという話ばかりで、自分の運転に対して客観視する謙虚な言葉がでてこないことが気がかりなのだ。
母に若いときよりも運転が荒くなったことは自覚しているのかを聞きたいのだが、ストレートに聞くことができない。とかく身内の中でも娘はまずい。へたしたらヒステリーを起こされて耳は閉じ、心も閉じてしまうかもしれない。そして何より、自分自身が母親に老いを自覚させるような言葉を言うのは避けたいと思っている。
「若いときはさ、鉄棒で逆上がりをしたり、ぐるぐる回ったりできたけれど、今は全然できなくなった。それと同じで、車の運転も若いときと同じような感覚ではできなくなってきているよね?」と聞くのはどうだろう……。
「運転は変わらず上手いけど、運動神経は年には逆らえないわけだから、気を付けてよ」
と言ってみようか。……我ながら、かなり回りくどい。願わくば、母から「若いときと同じ感覚で運転できなくなったわ。だから慎重にならないとね」と、言ってくれないだろうか。
そうやってひとり逡巡する。
受け入れることで
はじまる新しい車生活
車の運転は経験を積んでいく中で、運転のセンスが磨かれていき豊かな車生活が送れるようになっていく。でもある地点から運転は老いには抗えなくなり、豊富な経験がかえって運転の邪魔になる。経験でカバーできなくなる地点をドライバーは素直な心で受け入れなくてはいけない。これは決してネガティブは話ではなく、受け入れることができて初めて、また新しい車生活がはじまるといえる。とても前向きな話だ。
車はいつでも旅をすることができる箱。
自ら自由を得ることができ、自分と向き合うことができる空間。
とても良い刺激を心に与えてくれる乗り物だ。
自分の親はもちろん、全てのサライ世代に長く素敵な車生活を謳歌してもらいたいと思っている。今のサライ世代がかっこよく、スマートに車生活を楽しんでいる様子を見たら、それはサライ予備軍の私たちにとっても、嬉しい刺激だ。
文・鈴木珠美
カーライフアドバイザー&ヨガ講師。出版社を経て車、健康な体と心を作るための企画編集執筆、ワークショップなどを行っている。女性のための車生活マガジン「beecar(ビーカー)https://www.beecar.jp/ 」運営。