文/安田清人(歴史書籍編集プロダクション・三猿舎代表)
親子や兄弟の間でも骨肉の争いを展開することが珍しくなかった戦国時代。美濃の義父・斎藤道三と尾張の娘婿・織田信長の間は不思議な絆で結ばれていた。なぜ両者はお互い惹かれあったのか? かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)。同誌の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏が、読み解く。
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父信秀の死によって、尾張の織田一族は分裂と動揺の渦中におかれることになる。織田信長は、弾正忠家を継承したとたんに、大ピンチを迎えたことになる。
こうした状況を脱することができたのは、美濃の斎藤道三との友好・同盟関係があったからだと考えられている。
天文17年(1548)、まだ健在だった信秀は、道三の娘帰蝶と嫡男信長との縁組みを実現していた。信秀と道三は、長年にわたり抗争を繰り返した仇敵であったが、すでに病を得ていた信秀は、自分が死んだ後の信長、そして尾張の行く末を案じ、道三を味方につけておこうと願ったのだろう。
とはいえ、下剋上の権化ともいわれる斎藤道三が、自らに利のない同盟に応じるはずもない。そして、いくら娘婿とはいえ、何も得るものもなく信長を全面支援するわけもない。どうやら道三は、信長の「人物」を高く評価し、同盟関係を結ぶことに積極的な意義を見出していたらしい。
そのきっかけとしてよく語られるのが、道三と信長の「会見」だ。時期については天文21年説と22年説があるが、二人は尾張の北端に位置する富田という場所にあった聖徳寺で会見したという。この場所は尾張・美濃の国境に近く、かつては両国の守護から税金を免除される、いわゆる「アジール」(権力が介入できない聖域)だった。二人が会見する場所にふさわしい土地柄だ。
二人の会見については、以下のようなストーリーが語られている。
道三は、前もって信長の姿を確認するため、道筋の小さな小屋から、こっそり信長の一行を盗み見した。すると、信長は袴もはかず、荒縄を腰に巻いて、茶筅髷を結っていたという。茶筅髷とは、前髪は残して月代は剃らず、後頭部の髪を紐で巻いて髷にし、毛先を茶筅のように散らしたスタイルだ。かなり「パンク」ないでたちだ。
道三を驚愕させた信長の軍事パレード
ところが、従えてきた7、8百人の軍勢に目向けると、約6.3メートルにもなる長い朱色の槍5百本、弓・鉄砲5百挺が整然と並んでいたという。
かつて共産圏では、記念日などに軍事パレードを行い、そこでミサイルなど最新鋭の兵器を見せつけることで、最高指導者の権威をアピールする「ならわし」があったが、まさにそれと同じだ。
槍5百に弓・鉄砲5百。合わせて1千……。軍勢より多くなってしまうではないか! という「突っ込み」は当然あるが、まあ、こうした話には誇張がつきものなので、だいたいの数と受け取っておけばいいだろう。
ともあれ、信長の「軍事パレード」は、少なからず道三を驚かせたようだ。
その後、二人は聖徳寺で初対面を果たす。すると、信長はさっきとは打って変わった見事な出で立ちで会見場に現れた。堂々たるサムライ振り。このとき、何と信長の家来までもが仰天し、「たわけ振りは、偽りの姿だったか!」と言ったというから、信長は道三どころか自分の家来までも騙していたことになる。
この姿を目にした道三は、信長の他者の目を欺くしたたかさと、優れた軍事力を持つ実力に感じ入り、「自分の子どもたちは、信長の門外に馬を繋ぐ(家臣となる)ことだろう」と漏らしたという。
さて、歴史上の「名場面」と呼ばれるものは、往々にして後世に作られた創作であったり、下手をすると明治以降の「小説」で作られた場面だったりする。坂本龍馬が薩長同盟を成し遂げた名場面も、現在では「眉唾」ものだとされている。
斎藤道三が「マムシ」と呼ばれたというのも有名な話だが、どうやら坂口安吾が戦後に発表した小説「信長」が初出らしい。
そう考えると、この聖徳寺の会見もあまりに「できすぎた話」で、フィクションであるように見える。しかし、『信長公記』その他の史料に登場する話なので、多少話を「盛って」いるにしても、いまのところ会見自体は疑う必要はないようだ。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。