「麒麟がくる」劇中ではほぼスルーされた山崎の戦い。明智光秀と羽柴秀吉の天下分け目の戦いはどのように繰り広げられたのか?かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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本能寺の変をめぐる新史料
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で明智光秀は織田信長を討った。最近、発見された江戸期の史料『乙夜之書物(いつやのかきもの)』によると、光秀本人は本能寺襲撃には加わらず、京都南方の鳥羽の地で待機していたという。
『乙夜之書物』は加賀藩の兵学者関屋政春が古老から聞き取った話をまとめたものなので、その内容が信用できるかどうかは、今後の研究を待たねば結論は出ないだろうが、大山崎町歴史民俗資料館館長の福島克彦さんは、本能寺の変後、明智光秀が羽柴秀吉に敗れた山崎の戦いの直前、光秀が鳥羽にいたとする記録があることから、この逸話を話した「古老(?)」が、ふたつの戦いを混同した可能性もある、と注意を促している。
戦いの経過をたどる
ということで、その山崎の戦いについて触れたい。
本能寺の変が勃発したとき、羽柴秀吉は毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めにしていた。本能寺の凶報を得た秀吉は、宗治の切腹を条件としてただちに毛利方と講和を結び、中国大返しと呼ばれる迅速な行軍で畿内に取って返した。
6月6日、早くも秀吉勢は中国攻めの拠点としていた姫路城に到着する。ここで秀吉は明智方に付くと思われた細川藤孝・忠興親子と連絡を取り合ったり、「実は信長は生きている」といったデマを流すなど、光秀との決戦に備えた事前工作に余念がなかった。
一方、光秀は安土城を攻め落とすなど近江平定を済ませたうえで、9日に京都に戻り、秀吉勢が京都に迫っていることを知った。光秀は、京都南方の山崎、八幡、洞ヶ峠に軍勢を送り、秀吉勢の様子をうかがった。
光秀勢は総勢1万5000ほど。一方の秀吉勢は3万を超えていた。12日には池田恒興、中川清秀、高山右近といった信長軍の部将が秀吉に合流。さらに13日には大坂で信長3男の織田信孝の軍勢とも合流した。
信孝は、本能寺の変が起きなければ四国の長宗我部攻めのために渡海する予定だったが、信長の横死により大坂の地で右往左往していた。しかし、秀吉勢の動きを見て「これ幸い」と乗っかったらしい。
もちろん、信長の息子を味方につけるということは、秀吉にとっても「打倒光秀」の大義名分をアピールできるというメリットがあった。信孝の合流により、秀吉勢は4万の大軍に膨れ上がったという。
こうなると、数の上で光秀に勝ち目はない。頼りにしていた細川父子も、そして筒井順慶も、すでに秀吉に付いて光秀と戦う意思を明らかにしていた。
光秀は山崎、八幡に分散させていた兵を回収し、京都の入り口にあたる西国街道沿いの勝龍寺城付近に軍勢を集め、秀吉勢を迎撃する構えを見せた。
山崎の戦いの前夜、秀吉は主戦場となると予想された大山崎の地を一望できる天王山を確保しようと、配下の堀尾吉晴を派遣した。これに対し、光秀も大山崎の神人(下級神職)出身の松田太郎左衛門を天王山に派遣。一歩先んじた堀尾が天王山の確保に成功したとされている。勝負の分かれ目となる決戦を「天王山」と呼ぶ語源となったとされる逸話だが、秀吉伝記の『太閤記』に描かれるものの、同時代の当事者が残した記録には見られないことから、現在では疑問視されている。
6月13日の夕刻、山崎を流れる小泉川沿いで、両軍は衝突した。激しい鉄砲の音が数時間も鳴りやまなかったと記録されているが、一方で、京都の公家の日記などでは、当日は雨だったとの記述もある。雨の中で銃撃戦?というのも不審だが、ことの真相はわからない。
戦い自体は、4万対1万5000で、しかも城などに拠らない野戦では勝敗は分かり切っている。敗勢となった光秀勢はいったん勝龍寺城に籠もったのち、本拠である坂本城を目指して逃亡を図ったが、途中、百姓らによって殺害されたという。
【南北朝合戦の後醍醐方の轍を踏む。次ページに続きます】