『麒麟がくる』一時休止中に放映される過去の戦国大河の名場面特番第二弾は、昭和48年(1973)の『国盗り物語』。斎藤道三、織田信長のダブル主演で展開された同作は『麒麟がくる』とほぼ同時代を描いた。『国盗り物語』では、『麒麟がくる』では描かれなかった斎藤道三が信長に美濃を譲ると書き残した「美濃国譲り状」のくだりが描かれていた。「美濃国譲り状」とは何なのか?
かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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『麒麟がくる』では、本木雅弘さん演じる斎藤道三の熱演もあり、「美濃篇」は大いに盛り上がった。道三と息子高政との葛藤、土岐頼芸の曲者ぶり、そして「為政者=王」のあるべき姿を模索しつつ、理想と現実のはざまで懊悩する若き明智十兵衛。彼らの織り成す物語は、コアな戦国時代ファンも大いに楽しませただろう。
ということで、ここで少し「美濃編」の歴史的なおさらいをしておきたい。
斎藤道三と尾張の織田信長は、聖徳寺の会見以来、互いを評価し、信頼する関係を築いた。世代も生まれ育った環境もまるで異なる二人の武将、しかも、信長の父信秀は、何度も道三に煮え湯を飲まされた因縁がある。にも拘わらず、この二人が心を通わせた様は、戦国の世のひとつの奇跡と言えるだろう
この奇跡の人間関係は、決してフィクションではない。弘治2年(1556)、長男高政によって追い詰められた道三は、娘婿である信長に一通の書状を送った。「美濃国譲り状」と呼ばれるものだ。自分(道三)はまもなく死を迎えるだろう。そうなれば、美濃国の一切は信長に任せる——。
まさに驚天動地の内容が記されていた、らしい。
「らしい?」
そう。この書状は残念ながら現存しない。しかし、おそらくこういう内容が書かれていたであろうと推測できる証拠はある。
道三は、この書状を信長に宛てて書いてまもなく、11歳になる末子の勘九郎に遺言状を書いた。こちらは後世に伝わり、現在でも見ることができる。
そこには、「美濃国の儀、終に織田上総介に存分に任すべきの条、譲り状を信長に対し、贈り遣わし候事」と書いてある。
美濃の国のことは、ぜんぶ信長に任すべきなので、(そのことを書いた)譲り状を信長に贈っておいた、という内容だ。
遺言状の日付は4月19日。道三が長良川の戦いに敗れ、生涯を閉じたのは、その翌日だった。この遺言状を見る限り、道三が美濃国を譲ると書いた書状を信長に送ったことを疑う理由はないだろう。
この「譲り状」を、はたして信長が読んだかどうかはわからない。信長のもとに届かなかった可能性もある。しかし、これまで支援を惜しまなかった舅殿の窮地を知った信長は、ただちに救援に駆け付けようと出陣。美濃の大良(おおら。現在の羽島市正木町大浦か?)に陣を布いた。
しかし、この時すでに道三は息子高政によって討ち果たされていた。高政は手を緩めることなく、ただちに信長勢に襲いかかった。斎藤高政という武将は、父に劣らぬ戦上手だったとみえる。激しい攻撃を受けた織田軍は劣勢となり、ついには信長自身が殿軍(しんがり)として退却を余儀なくされた。
せっかく舅の道三に「国譲り」の確約をもらっておきながら、信長はむざむざと引き上げてしまった。信長が桶狭間の戦いに勝利し、一躍その名を天下にとどろかせたのは、4年後の永禄3年(1560)のこと。
まだ信長には、美濃一国を譲り受けるだけの力はなかった。
信長が道三との「約束」を果たし、美濃を手中に収めたのは永禄10年。道三の死から、実に11年ものちのことだった。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。