当欄ではたびたび、大河ドラマ『麒麟がくる』後半戦の尺が足りるのか? という問題を取り上げて来た。光秀が5年もの歳月をかけて取り組んだ丹波平定事業の労苦が描かれなければ、本能寺の変に至る光秀の心情変化を理解できないのではないかと思うからだ。
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天正8年(1580)、明智光秀はその人生の中で、絶頂の時を迎えていた。
三重大学の藤田達生教授は、最新刊『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』の中で、こう解説している。
〈天正八年には、同三年以来進めた丹波平定をなし遂げ、信長からはその恩賞として同国を宛がわれ、丹後に入国した細川氏と丹後守護家の一色氏の両氏が与力として預けられた。(中略)光秀は、近江志賀郡・上山城(京都北部から若狭に至る山間地域)・丹波という大領国を領有し、それに接する丹後と摂津・大和方面へ、さらには四国地域にも影響力をもつ、織田家随一の宿老としての地位を獲得したのである。この年は、光秀にとって人生最良の年だったといえるだろう〉
この年、光秀は新たに領国となった丹波で、ふたつの城の築城に着手している。そのうちのひとつが周山城だ。住所は京都市右京区だが、京都市内からは車で1時間強。旧国丹波に位置する。
光秀築城当時の佇まいが濃厚に残されていることで知られるこの城を、藤田教授や周山城に詳しい大山崎歴史資料館館長の福島克彦さん、地元の周山城址を守る会の皆さんとともに登城した。
山城だけに勾配のきつい個所があるものの、季節を選べばそれほど苦にはならないが、初夏の5月から秋口までは厳重なヒル対策が必要といわれる。登山道中腹の尾根筋からは麓の山国庄や弓削庄が見渡せる。
数多く遺された石垣遺構、本丸跡など見どころも多い。石垣の組み方が独特な場所が多い。細部に至るまで丁寧に石垣が設けられており、光秀の性格の几帳面さが伝わってくるという。
天正9年8月。光秀は、この城に茶人の津田宗及を招き、十五夜の月見と連歌の宴を催していたことがわかっている。
人生の頂点で催された月見の宴といえば、誰しもが平安時代の関白藤原道長の〈この世をば 我が世とぞ思う 望月の かけたることもなしと思えば〉の古歌を思い浮かべるだろう。織田家随一の風流人であった光秀もまた、宴の途中で道長の古歌のことが頭をよぎったであろうか。
しかし、光秀絶頂の時間は、長くは続かなかった。周山城での宴の半年後には、絶頂からの転落の刻が待っているのである。
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