文/安田清人(歴史書籍編集プロダクション・三猿舎代表)

光秀が久しぶりに再会した松永久秀(演・吉田剛太郎)は、京都の町の行政を一手に引き受けて活躍していた。

第1話から主人公の明智光秀と絡み、後半までその人物像がしっかり描かれた松永久秀(演・吉田剛太郎)。

『麒麟がくる』で吉田鋼太郎が演じる松永久秀の人気が沸騰している。第1話から主人公の明智光秀と絡み、その人物像がしっかり描かれる。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏が、松永久秀の実像についてリポートする。

* * *

戦国の梟雄(きょうゆう)というと、北条早雲、斎藤道三、そして松永久秀と、この3人の名前が挙がる。梟雄とは、勇猛で残忍な人物。要するに「悪者」のことだ。

3人に共通することといえば、次の3つだろう。

(1)出自があやしい。
(2)下剋上でのし上がった。
(3)インモラルな行動をとった。

しかし、こうしたイメージはあくまでも小説や映画・ドラマなどのフィクションによって肉付けされたもので、必ずしも事実ではない。

それどころか、この3人についての「極悪イメージ」は、専門家の間ではほとんど否定されているのだ。

北条早雲は、一介の浪人が今川家の家督騒動を収めたことで力をえて関東地方に進出。関東公方、関東管領といった既得権益をもつ権力者たちを駆逐して、関東の覇者となった人物として語られてきた。

しかし、実際は室町幕府の枢要を握ってきた名門伊勢氏の出身で、本人自身も将軍側近である幕府奉公衆を務めていた伊勢盛時という人物であることが明らかになっている。

盛時は、幕府の命を受けて今川家の家督争いに介入し、さらに幕府と対立する堀越公方・足利茶々丸を討って伊豆を手に入れたのだ。その後は、幕府から独立して関東に覇を唱えて戦国大名となったのだが、一介の浪人でも、怪しげな梟雄でもなんでもない。

斎藤道三も、一代で美濃を乗っ取ったというのは虚像であり、実際は父親の代から二代にわたって美濃で力を蓄え、事実上の国主となった人物であることが明らかになっている。

東大寺大仏殿焼き討ちと松永久秀

そして、『麒麟がくる』でも「チョイ悪オヤジ風キャラ」(チト古い?)として話題となっている松永久秀にも目を向けてみよう。

松永久秀といえば、「主君の暗殺」「将軍の殺害」「東大寺大仏殿の焼き討ち」という「三悪」をおかした、まことに悪辣な人物とされてきた。のちに織田信長に降参して配下となりながら、二度も謀反を起こした末に信長に討たれたというのも、マイナスイメージとなっている。しかし、近年の研究で、こうしたイメージはだいぶ変わってきた。

まず主君の三好義興の暗殺だが、当時の久秀の書状には、主君の病気を嘆き悲しむようすが書かれている。暗殺したという話は、後世に編纂された書物が出どころなので、実はかなり信憑性は低い。主君暗殺はおそらく冤罪だろう。

将軍足利義輝を殺害したという話も、同時代の史料を精査すると、久秀の息子久通と三好義継の犯行であることが明らかで、久秀自身は関わっていなかったことがわかる。久秀は、将軍殺害どころか、のちに将軍となる足利義昭を保護していた人物なのだ。

東大寺大仏殿の焼き討ちは、確かに久秀が関係している。しかし、当時の状況を検討してみると、事件の裏にある「事情」が見えてくる。

もともと久秀と対立する三好三人衆(三好政権を支えていた三好長逸・三好宗渭・岩成友通)が、久秀の居城である多聞城を攻撃していた。そこで、東大寺が三好三人衆に味方し、三好軍を境内にかくまうという事態が起きた。

こうなると、反撃に出た久秀は東大寺を攻めるほかなく、激しい戦いの中で大仏殿は炎上してしまったのだ。

比叡山を焼き討ちにした信長もそうだが、宗教を弾圧しようという意図は、久秀にもなかったろう。ただし、敵対勢力に加担をしたとなっては、状況次第で攻撃対象にせざるを得ないのだ。敵に味方した東大寺を、放置するわけにはいかない。そうした事情を考えあわせると、大仏殿焼き討ちを「久秀の責任」「悪行」と決めてかかるのは無理がある。

こうしてみると、久秀の「悪行」は、いずれも誤りだったといえる。天理大学准教授の天野忠幸氏などの研究によって、こうした事実は明らかになってきた。

さらに、久秀は実はかなりの教養人・文化人だったこともわかってきた。永禄5年(1562)、多聞城を築城中だった久秀は、城内に茶室の設計を指示している。翌年には茶会を開き、平蜘蛛茶釜、付藻茄子といった最高クラスの茶道具を使っていたことがわかっている。

当時、茶会を開くには、本人自身が相当な文化人・教養人である必要があった。誰でも茶会を開くことができたわけではない。織田信長も、特定の家臣にしか茶会を開くことを許さなかったという。
さらに久秀は、2年後の永禄7年には、多聞城の城内にしつらえた別の茶室で茶会を開き、天下の茶頭として知られる千利休を招いているのだ。利休に茶の手ほどきを受けるのは、あまたの大名が望んだ「名誉」であった。むろん利休自身も自らを「安売り」することはなかった。

おそらく久秀は、当時としては屈指の文化サロンを主宰する文化人だったのだろう。ただのワイルドなオヤジではなかったのだ。

【茶釜とともに爆発? 壮絶な最期は実話か否か。次ページに続きます】

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