『麒麟がくる』後半戦で注目されるのが、室町幕府15代将軍足利義昭(演・滝藤賢一)。過去には『国盗り物語』(1973年)では伊丹十三、『秀吉』(1996年)では玉置浩二が演じたキーマンの一人。足利義昭の動向が物語の行方を左右するといっても過言ではない存在だ。かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏が、織田信長と足利義昭の蜜月から破綻までの関係をリポートする。
* * *
永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たした。尾張の一大名に過ぎなかった信長が、「天下人」への道を歩みだした、その具体的第一歩と言えるだろう。義昭から見れば、流浪の生活に終止符を打って、見事、自らの将軍の座に着けてくれた信長は、まさに生涯の恩人とでもいうべき存在だった。義昭が信長のことを「御父」と呼んだのも、故なしとしない。
もちろん、一方の信長にとっても、征夷大将軍という「神輿」があればこそ、自らが京にあって全国の諸大名に命令を下すなど、公権力としてふるまう正当性が担保されるわけで、まさに義昭は掌中の珠と言える存在だった。
しかし、ふたりの蜜月関係は長くは続かない。義昭は、室町幕府の支配体制や政治秩序を復活させることを念頭に置いていた。信長の軍事力や勢威は、その重要な後ろ盾となるべきものであり、信長自身が義昭にかわり政治権力の主体となることは、まるで想定していなかっただろう。
実のところ、信長も当初はそうした義昭の政治ビジョンと折り合いをつける心づもりであったようだ。あくまでも目指すのは室町幕府の復興であると、信長も考えていた。しかし、上洛を果たして京の人士と交わり、朝廷や幕府の実態を目の当たりにするに及び、信長は義昭が政治的イニシアティブを握ることを否定するようになった。この信長こそが、政治の主体でなければならない。おそらくそう軌道修正したのだろう。
義昭が将軍に就任してから、わずか3カ月後の永禄12年正月、信長は義昭宛てに殿中掟という文書を提示した。これは、義昭の政治行動を制約して、事実上、傀儡政権としてしまう内容だった。さらに1年後の永禄13年正月には、信長は義昭を非難する五カ条を追加。その第四条では「天下のことは、信長に任せられたので、これからはいちいち義昭の許可を得るようなことはしない」とまでいい放っている。
両者の対立は、もはや隠しようもなかった。
なおこの殿中掟については、近年、将軍の権力を否定するものでは必ずしもなく、義昭個人のスタンドプレーを批判し、それを防ぐためのものだったという見解もある。
信長包囲網の通説と新説
完全に信長から心が離れた義昭は、信長と対立する、もしくは対抗しうる諸国の大名や大坂の本願寺に書面を発し、信長への敵愾心を露わにする。元亀年間(1570~1573)を通じて、信長は浅井長政、朝倉義景、三好三人衆、武田信玄、本願寺顕如らと抗争を繰り広げることになる。彼らは義昭の呼びかけによって、信長を追いつめる共同戦線を張る。これが信長包囲網だ。その要には、信長のもっとも身近にいた足利義昭がいたのだ。
さて、この信長包囲網、これまでは足利義昭を盟主とする「反信長共同戦線」というとらえられ方をしてきた。しかし、その実態は「室町時代秩序を維持しようとする政治運動だった」という新たな解釈をしたのが、三重大学教授の藤田達生さんだ。著書『明智光秀伝——本能寺の変に至る派閥力学』(小学館)において、藤田さんは「元亀4年(1573)の足利義昭の追放によって、室町幕府は滅んでいない」という従来の主張を展開。信長包囲網も、新たな段階になって継続していたとみている。
この年4月、甲斐の武田信玄が西上の途上で病死し、信長包囲網の一角が崩れた。そして7月に義昭は槇島城を信長に攻撃され、都を離れることになる。これをもって室町幕府は終焉を迎え、信長包囲網は決壊した、というのが一般的なイメージだろう。
しかし、藤田さんは信長包囲網が本格化するのはむしろその後で、しかもその中核には京都追放後も現職将軍であった足利義昭が位置し、信長をしばしば追い込んだと主張する。一般的には、元亀元年の浅井・朝倉との抗争が激化した状況を第1次信長包囲網と呼び、元亀2年から4年にかけて。武田信玄が西上してくる状況を第2次信長包囲網と読んでいる。
しかし、藤田説よれば、京を追われて毛利氏のもとに身を寄せた足利義昭は、将軍として「鞆幕府」を組織し、全国の反信長勢力を指揮して信長に対抗していたということになる。まさに、信長包囲網は続いていたのだ。
【明智光秀を動かしたのは信長包囲網? 次ページに続きます】